「誤解をまねくような言い方をしてしまい、申しわけありませんでした。」力の座にある人々の多くは、自分の「失言」に関してこの種の釈明をする。それが意味しているのは「たんに言い方が間違っていただけで、わたしの考え方の根本には非難されるべき点はありません」ということである。けれどもこんな釈明に心から納得する人は少ない。なぜなら、誤解をまねくようなことを言ったときには、誤解をまねくようなことを言った理由があるはずだからである。その理由に言及されないかぎり、本当は何の釈明をしたことにもならない。
「失言」とは「うっかり不適切なことを言ってしまうこと」と辞書にある。この辞書的定義もちょっと失言者の味方であるような気がする。人が「うっかり」不適切なことを言ってしまうなどということは、本当はないからだ。たしかに不注意や混乱から、公的・社会的な場で相応しくない言葉遣いを「うっかり」してしまうことはあるし、勘違いして誤った事実を述べてしまう場合もあるだろう。けれども「失言」がそういうものなら別に大騒ぎする必要はなく、訂正すれば済むことである。あるいは、立場上秘密にしていなければならないことを「うっかり」バラしてしまうこともあるかもしれない。だが「秘密」というのは大抵すでに知られている事柄であり、たんにそれを言うべきでない場所で言ったというにすぎない。
それでは「失言」と呼ばれているものは本当は何かというと、それは失言者の同類たちが多かれ少なかれ共通に心に抱いているが、けっして口にしてはいけないと暗黙に了解しあっている事柄を、あえて口にする行為のことである。だからこそ「失言」は同類たちを困惑させるのだ。「何で本当のことを言うんだ?」と。これはほとんど妬みに近い。「オレだって言いたいのをガマンしてるのに…。」「失言」を繰り返すような権力者は、そんなことくらいで自分は失脚しないという自信がある。だから非難されてもむしろうれしいくらいのものだし、問い詰められたら「誤解をまねくような言い方をしまして…」と逃げればいい、と彼らは考える。
「野次」では、正規の発言なら「失言」とされるようなものでも容認される。なぜなら正規の発言は言葉遣いに定まった形式があり、そうした形式では拾い上げることのできない不定形な「真実の声」が、民主制には必要だからである。形式は力であり、不定形なものとはまだ力を持たないものである。だから「野次」とは基本的に、それが相対的に力を持つ者に対して力のない者から発せられる場合にのみ意味を持つ。またそうした発話が力によって封殺されることを防止するために、ある程度の匿名性が許されているのだと理解できる。
それでは、若い女性の議員の発言を年長者の男性議員が、結婚や出産にまつわる「下品な野次」によって妨害しようとする動機は何だろうか? まず上のような意味においては、相対的に強い者が弱い者を攻撃するそうした発話は、民主的な議論の場で容認される「野次」とは言えない。とはいえ、政治的な力ということを別にすれば、やはりそうした不規則な発話もまた、何らかの弱さと真実を代弁するものだと考えることはできる。それは女性たちの声が、政治における父権的秩序を解体してゆくことに対する無意識の、集合的な不安の表明である。「無意識」であるのは、父権的なものはいまだに形式の上では揺るがないように見えるからである。だが彼らは自分たちが滅びゆくことを本当は知っている。「産めないのか」という「野次」にニヤニヤする男たちは、自分たちがそもそも「産めない性」であることの不安を否認したいだけなのである。