あまりに質問が多いので、まとめて簡単に答えておきます。
・超能力はあるのか?
どうでもいいです。あってもなくても、私たちの生活には何の影響もない。スプーンが曲がったり、数十センチ空中に浮かんだり、そんなことがたとえできても、何の足しにもなりません。そういう能力を「証明」して何の意味があるかというと、それは「今の科学では説明できないことがある」というようなつまらないことだけです。「超能力」を主張するような人は(たぶん本当は科学者になりたくて)、たんに「科学」を仮想敵にしているだけなのです。でも私たちはあることが科学的に説明できるかどうかなんて、気にする必要はまったくない。そんなことは科学者に任せておけばいいのです。
・ではなぜ「超能力」が気になるのか?
「超能力」に惹かれるのはほとんど男子です。そしてどちらかというと、ケンカとかに自信がない、暗い男子ですね。昔の永井豪のマンガとか典型的ですが、女の子と歩いていて不良にからまれたとき、腕力でその娘を護ってやれない場合、どうしよう? という不安に発しています。つまり「超能力」とは腕力の代償であり、さらに言えば、それは女性に愛されるかどうかということにかかわっています。
これが何を意味するかというと、「超能力」とは女性の能力への羨望だということです。この世の中でもっとも「超」な能力は何かといえば、それは子供を産むことです。男子がなぜ「超能力」に惹かれるかというと、それは出産という、自分が絶対になしえない究極の能力に憧れるからなのです。でもそれは認めたくないので、念力とかテレポーテーションとか、形を変えた能力への空想でゴマ化しているわけです。
もちろん、小説やマンガや映画などの中で、超能力を使って面白い話を作ることはとても楽しく、ぼくも好きです。でも、もしもあなたが超能力をマジに追求するととしたら、そうした欲望がそもそも何に由来するのかを考えてみる必要があります。
・魂は不死なのか? 死後の世界はあるのか?
これはトリッキーな質問で、肯定しても否定しても、それはある種の形而上学的な主張をすることになります。でもあえて言うならば、死後の世界はありますが、それはこの世界とはあまりに違いすぎていて、言葉で記述することはできません。いわゆるオカルト的な思想の中で描かれてきた「死後の世界」のありさまは、ひとつひとつの要素をとつてみれば、すべてこの世界の経験から抽出された材料で造られていて、それだけでもインチキであることが分かります。
魂は不死なのか、そもそも魂なんてあるのか? そういう問いが起こってくるのは、とりわけ近い人の死を経験したりすると、当然のことです。でも現代では、まともな哲学者はそんなことに答えてはくれません。ぼくは哲学者のはしくれですがたぶんあまりまともではないので書いているだけです。とりあえず、こうした問いは起こるに任せておけばいいのです。答える必要はありません。答えることにはあまり意味がありません。でも、どうしてこうした問いが起こってくるのかという、その根元を自分の中に探すことは意味があります。
オカルト的な問いをはなからせせら笑ってバカにするというのは簡単なことですが、それによってそうした問いの力は消え去ることはありません。