ちょっと捕捉します。
前の記事では、すこし否定的な面ばかり書きすぎたかもしれない。長いブログ記事を全部読んでちゃんと反論してくれる人も、もちろんたくさんいます。ネット上の応答がすべて「2ちゃんねる」みたいになっているわけではない(し、「2ちゃんねる」だってすべてが「2ちゃんねる」的であるわけではない)。ネット上のやりとりがリアルな世界における変化へと結びつくことも少なくない。ぼく自身も経験してきた。
この前の記事で言いたかったのは、ネットとリアルというのが単純な対立ではなく、ネットがリアルの代行をしてしまうという側面についてである。先日、自由とは何か? という短い文で、自分が自由だと感じることはしばしば幻覚であり、そのように人を洗脳することは比較的簡単だ、と書いた。現状のネット環境はそうした洗脳装置としてもきわめて強力に機能していると思う。そしてネットのこうした側面が、グローバル資本主義をひたすら拡大させようとする支配層にとって好都合であることは確実なのである。
別な言い方をすれば、現状のネット環境は「リアル」な世界というものを、どこか遠くの、手の届かない場所にあるものとして想像するように強く促すという機能を持っている。つまり、ブログやツイッターで何かを書くことは、たとえばペシャワールで医療活動をしている中村哲さんのような人がやっているリアルな実践の、対極にある何かであるように、人は想像したがるのである。実はこれこそが、ネットによる洗脳の最たるものなのだ。誰かが海外でボランティア活動をしていることと、いま自分が日本のネットカフェでツイッターしていることは、両者とも本当はまったく同じ「リアル」なのである!
それに対して現状の「ネット」とは、「リアル」を羨望させる装置として機能しているのである。だからネットの問題とは、ネットに没入しネット中毒になることにあるのではなくて、むしろ「リアル」を特別視し、それを「ここ」にはない何か、はるか彼方——シビアな現実が存在する外国の紛争地域とか、自分から奪われている幸せを享受している「リア充」の世界とか——にあるものとして空想する心的傾向を助長するという点にある。ネットとリアルとは「対立」ではなく、ネットもひとつのリアルである。この認識が広く共有されるようなネット文化が発展すれば、確実に何かが変わってゆくと思う。