ツイッターの反響で、もう少し「自由」について話してくださいと言われたので、あまり時間がとれず不十分だけど、ちょっとだけ捕捉します。
「自由とは、自由を感じること(それはしばしば幻覚である)ではなくて、自分が今まで何に囚われていたかが分かることです。それしか自由の証はない。」とぼくは書いた。
「自分は自由だ」と感じるように人を洗脳することは、それほど難しいことではありません。家庭も学校も国家も、ある意味ではそうした洗脳装置としての側面をもっています。
でもそうした洗脳装置としていちばん強力なのは、現在のグローバル資本主義です。そこでは、努力してお金持ちになったり社会的地位を得さえすれば、最大限の自由が保障されているようにみえる。歴史が終わり、過去の因習が除去されて、あとは経済的合理化と技術的イノベーションによって人間はどんどん自由になる、そんなふうに人々は空想しています。
けれどもそれはまったくの虚妄です。なぜなら自由とは、自分が自由だと感じることではないからです。
今週の美学講義では、カントの自由概念について話しました。批判期のカントにとって、「自由」とは現象として経験されるものではありません。それは「自然」と両立しません。つまり「自由である」という客観的な状態は存在しないということです。
ぼくの言葉で言い直すならば、自由とはむしろ、自分自身の束縛状態をはっきり自覚するということの中にしかないのです。自由とは「状態」ではなくて「認識」です。勉強するのはそういう認識に到達するためで、いくらやってもきりがないのだけど、でも苦痛なものではなく、みんなでやれば楽しいものでもあります。だから大学での講義もしているのです。
こんなところかな。あんまりちゃんと書けなかったけど。