「同性愛は自然である」は、少し前に書いたテキストですが、どういうわけかこの数日夥しい反響があったので、ちょっとだけ応答します。「少し前」というのは、ソチオリンピックの時です。ロシアにおける同性愛への弾圧がきっかけで書いたことは間違いないのですが、「21世紀にオリンピックを開催する国家なのに、ロシアは遅れている!」というような意味で書いたのではありません。
日本も含めいわゆる「先進諸国」でも、そして「リベラル」な人たちの間でも、つまり「性的な事柄の選択は個人の自由なのだからマイノリティの権利も擁護すべきだ」と表向きには言う異性愛者の人たちの間ですら、内心では「本当は不自然なんだけどね」という「気分」は消えてないと感じたので、こんなこと書くまでもないとは思いましたが、あえて書きました。
「反響」はいろいろあった。まず「あなたが同性愛者だから擁護するのでしょう? 」というようなのが、ポジティヴにもネガティヴにもいくつかありました。自分のコミュニティの利権を護るために書いたということです。ぼくは同性愛者と思われても全然かまいませんが、事実はそうではありません。けれども、そうでないということを、性的な興味で近づいてくる人の誤解を避けるため以外に言ったことはありません。
また「自然である」と宣言しただけでは何も変わらないではないか? という疑問もありました。それはその通りだと思います。ぼくは自分が書いたもので世の中の何かを変えようと思ったことはありません。また、本当に「自然」なのか? あなたの「自然」の定義は何か? というような問いかけもありました。定義から出発する議論をぼくは信用しませんが、あのテキストで「自然」と言った意味は明白だと思います。同性愛と異性愛には区別がないということです。
断章的で途中繰り返しや議論の乱れがありますが、同性愛や同性婚をふつうのこととして認めることが「異性愛をも含む人類の性的文化そのものの豊かさを回復するために必要」という文には、少なからぬ共感をいただいてうれしいです。これがいちばん言いたかったことだからです。このあとは、次号の『有毒女子通信』(第14号)でも書くので、ぜひご覧いただければ幸いです。