桜も葉桜に変わって、また新しい年度の授業がはじまる、ユーウツな季節である。そして、これはたぶん歳のせいだが、この時期には自分の中学高校時代のことがひときわ思い出されてきて、それもユーウツな記憶なので、除霊のためにここに書き記すことにする。
1974年の3月に、京都の公立中学校を卒業した。その後進学することになっていた東山区の市立高校は、春休みの間に何者かがベランダを爆破するという事件があり新聞にも報道され、あんな学校に行って大丈夫か? と家族から言われた。
大丈夫かと言われても、ほかに行く所はないので仕方がない。中学の進学指導の先生からは、高校に行って何でもすきな本を読んでいいけど、マルクス、レーニンとかそのあたりだけは読まないほうがいい、などと言われた。「そのあたり」って…(笑)。
その高校は美術コースを売り物にしている学校で、制服もなく、現代のどんな大学よりも自由だったと思う。授業では一応出席はとったけれども、先生は出席簿をみながら名前を読み上げるだけで、どうみても20人くらいしかいない教室で、45人全員出席の返事がきても怪しまれなかった。
木曜の3・4限が美術の時間で、だいたい近くの泉湧寺とか伏見稲荷とかに写生に行くことが多かったのだが、昼近くになるともう学校に帰る気がしなくて、そのまま居残って絵を描き続けたり、映画を観に行ったりした。ストリップ劇場に通っていた子たちもいて、当時だってもちろん18禁のはずだが、高校の学生証をみせたら割引になったという。
小、中学校を通じて学校に不適応だった。中学の時は特に深刻で、人類にも自分にも未来はないという気分で生きていて、勉強もスポーツも社会的活動もできなくて、わずかに写真(の現像焼き付け)と電気工学とSF小説にしか意味が感じられなかった。高校に入って少しマシになった。それは管理がユルくなったせいでもある。これなら何とか生きていけるかも、と思った。
とはいえ先生たちとは相変わらず折り合いが悪く、その中でもどうにか気が合って可愛がってくれたのは、ちょっと風変わりな現代国語の女性教師だった。すでに故人となってしまったが、アイリス・マードックを思わせるような小説を書いていた人で、ぼくがH・G・ウェルズや野間宏について書いた読書感想文を高く評価してくれた。
尊敬できる先生はもうひとりいた。ぼくは理系のコースにいたのだが、3年生になって、こんなノンビリしたことで大学に行けるのだろうかと不安になった。それで理系志望の何人かで数学の入試問題の勉強会をしようということになり、数学の先生に顧問を頼んだのだが、若くて有能そうな人気教員は、組合活動で忙しいのでダメと言われた。
結局いちばん年輩でヒマそうなO先生が引き受けてくれた。小柄な女性教員で、ぼくは授業を受けたことはなかったが、自主的に勉強会をするなんてあんたらはエラい、といって日曜の朝にちゃんと出て来てくれたのである。それで数学の入試問題についていろいろ質問したら、なんとこの先生はまったく出来ないのである。そんな難しいことはわたしは分からん、と言う。
仕方がないので、生徒たちが順番に自分で考えてその結果をみんなの前で講義することにした。これがものすごく勉強になったのだが、さらによかったのは、そのO先生が、自分は何も教えられないのに毎週出てきてくれたことである。ぼくたちが教壇で問題を解くのを席に座って聞いて、なるほどなぁ、あんたら賢いなぁ、と言って誉めてくれるのである。
この先生は、本当にエラい人だと思った。その時も思ったが、その後年月が経つにつれて、さらにそう思う。自分が大学に行けたのはこの人のおかげだといってもいい。高校時代でいちばんいい思い出は、この自主授業かもしれない。