今日が最終日となる「パノラマ・プロジェクト京都篇」にも、1月の東京篇と同様に「パノラマ嬢」なる存在が登場する。これはやなぎみわ+唐ゼミ☆による演劇作品「パノラマ」の、舞台の外部に展開された演劇的な仕掛けのひとつといえるようなものだ。「パノラマ嬢」というのは「パノラマ」(歴史的なパノラマ館であると同時にパノラマ・プロジェクト)へと観客を導く存在であり、やなぎみわさんの美術作品に初期から登場していたデパートの案内嬢とかエレベータ・ガールのイメージを引き継ぐキャラクターでもある。制服を身につけ、(理想としては)無表情・無個性であり、無機質な笑みを浮かべ、ロボットのように受け答えをする。現実の都市空間にみられる、そうした若い女性の職業的ステレオタイプを、意図的に強調した存在である。
だからこうした女性像自体は、ある意味で誰にとっても見慣れたイメージなのである(それが場違いな空間に登場している点を除けば)。ではあるのだが、あらためて彼女らはいったいどこから来たのか、そもそも「パノラマ嬢」とはどういう存在なのだろうか? と問いかけてみると、その答えはかならずしも明確ではない。
とりあえず思いつくのは(あまり面白い解釈ではないが)、これが、制服を着た女性身体に向けられる男の性的ファンタジーを逆手にとるような、フェミニスト的・美術的な戦略である、というようなことである。大多数の男は、若い女性の身体が、生殖や母性とは反対の意味を持つ制度的衣服に包まれ、その隙間から女性的身体が垣間見えることにより、性的刺激を受けるべく文化的に条件付けられている。空想的なレベルではたとえば「戦闘美少女」のような戦闘服もそうである。「案内嬢」はより現実的な文脈において、企業や組織の中で規則に拘束され機械的な動作を強いられた女性身体を代表している。
宝塚歌劇のような「男装」は、ここでは問題にならない。男装というのは男の主体性を模倣することであり、それは男に潜在的な不安を与えるので、異性愛者である大多数の男性にとって、エロス的対象として知覚されない。女性の身体がエロス的に受容されるには、男の持つ「主体は自分である」という暗黙の幻想を脅かさないように、主体性を奪われた存在として女性を表象する必要があり、制服や機械化はそのために有効である。だから美術的には、そうしたステレオタイプを別な文脈に置くことによって、男の自己イメージや性的欲望の仕組みを露呈させることが可能となる。
と同時に、「案内嬢」やエレベータ・ガールのような存在は、近代の産業社会において女性に振り当てられた非肉体的な周辺的労働(案内や接客などのサービス、タイピストや電話交換手のような情報処理)が持つ、逆説的な意味を露わにする。社会を動かす中枢とみなされるのが、主として男性に振り当てられる意思決定や肉体労働として表象されるのに対して、案内や接客やオペレータとは一見、決められたマニュアルに従ってたんなる機械的手続きを実行するだけのようにみなされる。けれども現実には、そうした労働に従事する女性たちは会社の重役たちよりも、その企業の健康状態に関する重要な情報に日々接しているのである。案内嬢やエレベータ・ガールは訪問者や顧客の会話に一日中聞いているし、タイピストや電話交換手は重要な手紙や会話の内容をすべて知っているからである。
彼女らが知っている「秘密」は、彼女らがロボットのように、サイボーグのように機械的・無機的に振る舞えば振る舞うほど、ますますその力を増してゆくことになるだろう。