「メディア芸術祭」最終日のシンポジウム「想像力の共有地(コモンズ)」に行ってきた。いま、京都に帰る新幹線の中で書いている。
大澤真幸さんと話すのは面白く、化学反応みたいになって暴走する。そのため、聴いている人のことを考えられなくなってしまった瞬間が何回かあった。もうしわけなかったが、その方がかえって面白かったという感想もあった。
ぼくたちのセッションは最後の第3部で、その前の第2部では、美術家の村上隆、ヤノベケンジ、中原浩大が、22年前の『美術手帳』での鼎談以来(その当時彼らはその後の美術文化の行く先を予見していた?)というような、かなり怪しげな企画ではあったが、個々の発言は面白かった。村上さんの「日本の現代美術オーディエンスはバカ」キャンペーンは、かえって彼が日本の美術状況をどれほど真剣に気にしているかを露見するし、ヤノベさんの「村上さんはぼくの作品どう思ってるの?」とか、中原さんが「なんか、すっごくしゃべりにくい」とつぶやいたりとか、そうした発話の中にとてもいいものがあった。
自分が言ったことで、今後も考え続けようと思ったことのひとつは、「芸術」というのが何ら特定の文化的実体ではなく、私たちが日々行っている実践をについて考え、それを理解するための、ひとつのアスペクト、「ものの見方」にすぎないということである。ぼくは本当にそう思っており、だから「メディア芸術祭」の個々の「部門」とされているマンガ、アニメ、ゲーム、アートといったことも、領域というより「ものの見方」だとしか思っていないのだが、このことがどんな帰結をもたらすかを、考えていきたいと思っている。
芸術がたんなる「ものの見方」にすぎないとしたら、「芸術学」などというものは専門学科として成り立たなくなるし、「芸術学者」というのも原理的には専門家として成立しなくなる。それは危機的なことだろうか? ぼくは、それでいいと思っている。
専門家というものは、べつに育てなくても勝手に際限なく生まれてくるものである。なぜなら、近代国家もグローバル経済も、専門家的な人間は歓迎するからである。文化の専門家は、自分自身は誰からお金をもらっているわけでもなく良心的に研究を進めているつもりでも、結局のところ、それによって誰が利益を得、どんな社会構造を温存させることになるのか。それを考えるのは専門家にはできない。
それを考えるのは批判的・批評的な思考をする人たちである。それは専門家ではなく、聴衆の代表である。そういう人々の存在が、文化における共有地(コモンズ)の基盤だと考えている。だからぼくは自分自身そうした者のひとりになりたいと思っており、またそうした人を増やしたいと思っている。