昨日より、東京都台東区の入谷にある「葬想空間スペースアデュー」という会社の2階「シナジーホール」という部屋を借りて、作品「BEACON 2014 memento」の設営を行っている。
「BEACON」というのは、現代美術作家のKOSUGI+ANDO(小杉美穂子・安藤泰彦)、実験映像作家の伊藤高志、サウンドアーティストの稲垣貴士、そしてぼくの5人からなるチームで、1999年以来続けて来たマルチメディア・インスタレーション作品である。回転する2台のプロジェクタによる映像、サウンド、およびテキストによって構成される。名古屋の中京大学Cスクエアを皮切りに、東京のインターコミュニケーションセンター(ICC)、大阪成蹊大学スペースB、京都芸術センター南ギャラリーで発表してきた。今回は通算5回目になる。
葬儀場の空間で作品発表することになったのは、入谷の坂本小学校区における「パノラマ・プロジェクト」の一環として、この作品を招待してもらったからである。下町のさまざまな空間を使って展示やパフォーマンス、演劇をやるというのが全体の構想であり、「BEACON」が実現可能な場所として地域の可能な場所を検討した結果、葬儀場の部屋を使わせていただけることになった。その場所は私たちが発案したわけではないけれども、最初に案内された時、特にぼくがとても気に入って、会社の方々もとても親切に対応していただいたので、ここでやろうと決めた。
葬儀場がどうして気に行ったか。それはぼく自身の個人的な経験もたしかにかかわっている。ぼくが5歳の時に亡くなった父のことはよく憶えていないのだが、その後の葬儀や法事の印象は自分の人生のはじめの記憶として強くあるからだ。法事は、誰のものでもなんだか懐かしい気持ちがする。それから、墓地を歩くのも子供の頃からなんとなく好きだった。こんな傾向は相当変わっていると想っていたら、後にマンガ家の水木しげるさんもそうだったと聞いて、とても共感をおぼえた。
それはともかく、いま設営をしている空間は本来はお葬式に使う部屋なので、祭壇があり、その上に柩が安置されている。美術館やギャラリーの中立的なホワイトキューブとは違い、空間そのものが強い意味を担っているのである。最初は、映像投影のためにそこを適当に仕切って、ギャラリー的な空間を作り出すことも考えた。けれども、そうやって擬似的なホワイトキューブに見立ててしまったら、かえってその場所の持っている意味が意識され、場所の力に負けてしまうと考えた。それで、祭壇との間には薄い白布でスクリーンを垂らし、柩も使わせていただくことにした。
「BEACON」はこれまで、その展示場所で撮影した映像を使用してきた。そこで今回もこの葬儀場の場所や、近所の風景も撮影し、また置いてある柩に入るという可能性も考えた。そんなこと許可されるだろうかと思ったが、会社にたずねてみると驚くほど好意的で、「いいですよ!入棺体験というのは『終活』(人生の終わりに備える活動)としても人気があるんです」と快諾していただいた。「終活」という言葉は恥ずかしながらはじめて学んだ。ただ、誰でも入れるというわけにはいかないのでひとりだけにしてくださいと言われたので、ぼくが入ることにした。それで、昨日その撮影を行って、いまその編集作業をしている。
こうしたことを、あまり好ましくないと感じる人もいるかもしれない。美術作品の制作のために、厳粛であるべき人の死にまつわることを「利用する」なんて、ふざけているとまでは言わなくても、不適切なことではないか、と。
ぼくはそうは考えない。死が厳粛なものであることは否定しないが、その厳粛さとはそもそも誰のためにあるかといえば、それは生者たちのためにあると思うからである。死者たちにとってはどうか? 死者たちにとって死とは、いわばあたりまえの事実であり、厳粛さとは無縁だろう。けれども死者たちは、生きている私たちが死に直面することができず、そのために「厳粛さ」という防壁で死からみずからをガードしていることを、別に非難したりもしない。
美術作品は、生者たちに向けられていると同時に、死者たちにも向けられているとぼくは考えている。そうでなければ、美術作品の意味が成立しないからである。だからそこでは何らかのやり方で、生と死を分割している「厳粛さ」というガードを取り払われなければいけない。たとえば石内都さんの作品「ひろしま」をぼくはとても高く評価しているが、それはこの作品において、被爆者の着ていた衣服が美しく撮影されることで、「原爆」という厳粛さのガードが崩され、死者と生者とのあいだに親密さが回復されるところに、この作品のすばらしさがあると思うからである。
生と死は単純に対立するものではないと、ぼくは物心ついたときから感じてきたのである。若い頃はそれをちゃんと言葉で表現することができなかった。でもいまは、少しだけできるようになった。生きた世界には死が重なっており、生者のいとなみは常に沈黙する死者たちによって視られている。けれどもそれはいわゆる霊魂とか幽霊とかいうものとは、何の関係もない(霊魂も幽霊も、やはり生者たちが必要とするガードのひとつなのである)。生と死が端的に重なり合っていること、生きることを常にその上に死がオーバーラップしたものとして経験するとき、私たちは、そうでないときよりもよく生きることができると、ぼくは思う。
今回、たまたま私たちの作品「BEACON」の場所として葬儀場が与えられたことで、ぼくの書いたテキストには、そうした人生観が反映する結果になった。