先週の水曜日(2013年5月29日)、パリの国立装飾美術大学(École nationale supérieure des arts décoratifs)とパリ第8大学が主催する講演会のシリーズで、「インタラクションが臨界に達する時」("When Interaction Reaches the Critical Point")という話をしました(パリ第8大学の大久保美紀さんのブログに、講演の要旨と説明が英語とフランス語で掲載されています)。英語でわりとフリーに話したので、内容を正確に思い出して文章化することはできませんが、大まかに言えば「新聞女」と「フォルマント兄弟」という、一見かなりかけ離れたアーティストの活動を手がかりとして「インタラクション」概念の再検討を行うのが趣旨でした。いずれちゃんと文章化したいのですが、とりあえず要点を整理して日本語でメモしておきます。"The Critical Point(臨界=批評的ポイント)"という言い方は明らかに「フクシマ以後」という文脈を意識した比喩ですが、この点も講演では十分発展させることができなかったので、いずれ補足する必要があります。
この話は前回のブログ記事「インタラクションとは何か?」の、ある意味での継続です。そこでの要点は、インタラクションとはアクションとリアクションの集まりではなく、それらがリアルタイムに相互反響することによって生み出される、新しい行為の場のようなものとして理解するということでした。比喩として必ずしも適切でないかもしれないが、それは「合わせ鏡」のような状況が一挙に成立しているような状況だと言うこともできます。こうした、無限の相互作用を最初から含み持ったような行為概念は、抽象的なレベルにおいては、すでにいくつかの哲学的な定式化を見出すことができます。しかし、具体的にはどんな行為がその実例となるのか? 人間の為すすべての行為が本来そうなのだと言うのは間違いではないけれども、それではあまりに漠然としすぎている。ぼくの論旨は、それに「インタラクション」という名前を与え、かつ現代アートにおけるいくつかの具体的実践をそのモデルとして理解するという点にあります。
まず「新聞女」。こうした芸術行為は「パフォーマンス」などと分類されることが多いのですが(そしてそのように分類されることを拒否すべき理由もないのですが)、ぼくは「彼女らは新聞を身に纏うというパフォーマンスを通じて何を表現しようとしているのだろうか?」などと問いかけても何も分からないと思っています。そうした問いは「アートとは自己表現である」ということを前提としていますが、ぼくは新聞女(たち)のやっていることほど、「自己表現」から遠いものはないと思うからです。むしろそれは、表現すべき「自己」などというものを捨てること、外に向かって不断に呼びかけ続けるような行為だと思います。とはいえそれは孤独な呼びかけではなく、そこにはたくさんの反響が湧き起こり、模倣や変容が生まれ、どんどん増殖してゆく。「新聞女」西澤美幸さんの師匠であり、ぼく自身にとっても到達不能な先達である故・嶋本昭三さんは、そうした状態を「ネットワーク」と呼んでいました。ぼくが「インタラクション」と言っているのは、たぶん嶋本さんが「ネットワーク」と呼んでいたものに近いと思います。
西澤さんと話すと「わたしみたいなアホなことをやっている人間でも、こんなにハッピーに生きてるとこを見せて、みんなを元気にする」というようなことを言う。また、昨年の日本記号学会大会(神戸ファッション美術館)でのパフォーマンスで、ぼくの頭にマジックで落書きしたときなどは「こんなエラい先生がわたしと一緒にアホなことやってくれるなんてハッピーです」などと言う。彼女流のそうした言い方をぼくなりに理解しパラフレーズするならば、新聞を身に纏ったり頭に落書きしたりすることは、たしかにそれ自体はアホなことだが、けっしてそれ自体の中には(自己表現や社会批判等々といった)目的はない。ぼくは美学者で大学教授だから彼女は「エラい人」(つまり制度内で制度を仕切ってる側の人)と言うけれど、そこには実はそんなに重大な意味はないのです。またぼくも、新聞を着たりハゲ頭に落書きするような行為を「一見アホなことにみえるかもしれないが、本当はエラいことなのである」(つまり単なるオチャラケではなく芸術である)などと論じるつもりはない。重要なことは、新聞女の生み出すある種の祝祭的出来事の中では、「アホなこと」と「エラいこと」との対立が無効化されてしまうということなのです。そういう状態をぼくは「インタラクション」と呼びたい。
一方フォルマント兄弟の活動、とりわけ最近の、アコーディオンをインターフェイスとして「兄弟式ボタン音素変換国際標準規格」を実現したパフォーマンスについては何が言えるでしょうか? それを機械と人間との関係という大きな参照軸に照らし合わせてみた場合、ぼくはそこに、機械(人工物)と人間(自然)とがリアルタイムに反響し合う「インタラクション」をみることができると考えます。機械と人間との対立を前提した上で、機械に人間を模倣させるのが、普通の意味でのシミュレーションでしょう。このシミュレーションはたいていの場合ある程度成功し、決定的な所で失敗することで、そこに「フランケンシュタイン」的なもの、「不気味なもの」が生み出される。それがテクノロジーをめぐるドラマを構成します。三輪眞弘さんの「逆シミュレーション」音楽は、反対に人間が機械(コンピュータの演算論理)を模倣することで、フランケンシュタイン的ドラマを解体します。つまり、そうしたドラマが機械と人間との関係についての一方的的で恣意的な解釈に基づくものであり、何ら必然性を持たないことを示す、すぐれたパフォーマンスだと思います。
機械と人間との関係という軸からみるならば、フォルマント兄弟の活動はさらに一歩前進していると、ぼくには感じられます。人間の声をリアルタイムに生成するシステムを用いて、ピザを注文したり都々逸や演歌を歌わせたりすることは、これも一見すると新聞女のパフォーマンスと同じオチャラケのような、何か大がかりな装置を使ってふざけているだけのような印象を持つ人もいるかもしれません。また、もしも人工的に再現された人声を「本物そっくり」のように思わせたり、そこにバーチャルな歌手の存在を感じさせたりするのが目的ならば、「初音ミク」などのいわゆるボーカロイドの方がよほど効果的な方法を用いている。重要なことは、フォルマント兄弟の活動はそうしたことを目的としてはいないということです。むしろ、機械と人間との対立から出発するのではなく、機械が人間を反映し人間が機械を反映するような、新しい相互作用の場を成立させることが目的だと思います。
逆に言えば、ボーカロイドに代表されるような、すべてのシミュレーション技術は、いまだにフランケンシュタイン的ドラマの内部に留まっているということです。このことはまだまだ説明が必要なのですが、彼らの最新作「夢のワルツ」の、ほとんど聴きとれない歌詞の冒頭—「カラヤン広場の サーカスのひ/響け広場に 夢のワルツ/空中ブランコ 綱渡り/響け広場に 夢のワルツ」—にしたがって、いまは次のように言っておきましょう。。
私たちを驚嘆させるもの。西洋近代音楽の最高の到達点と、さらには高度な音響・録音テクノロジーによって増幅された、その頂点としての「カラヤン」。それは言ってみれば、近代音楽というシステム=機械が人間精神を限りなく飲み込んでゆくシミュレーションの頂点でもあり、すべてのフランケンシュタイン的なドラマの頂点でもある。けれどもそれは基本的にスペクタクル、つまり「サーカス」なのであり、私たちが魅了されているのはもっぱら「空中ブランコ」や「綱渡り」のようなスペクタキュラーな離れ業なのです。それらは抗しがたい力で私たちを惹きつける。けれども、サーカスはいずれ終わるのです。サーカスが終わった後には、機械と人間との関係についての新しい歌がうたわれ、新しい物語が語られなければならない。そのことは、テクノロジーの論理によってますます深く浸透されてゆく私たちの社会、身体、人生にとって、切実で根本的な要請だと思います。その物語を、新しい行為概念としての「インタラクション」によって語っていきたいと、ぼくは考えているわけです。