以下の対談は、5月14日より京都のヴォイスギャラリー(MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w)で開催される、光島貴之さんの個展のために行った対談です。
吉岡:今日は、5月にヴォイスギャラリーで予定されている光島貴之さんの個展「みる/さわる だけではわからないかもしれない」について作者の光島さんにお話をうかがいたいと思います。
光島さんと最初にお会いしたのはたしか1999年の「SKIN-DIVE」という展覧会のときだと思いますが、最近よく話すようになったのは、2年くらい前から同志社や京大でのぼくの講義に来られるようになったからですね。
光島:そうですね。
吉岡:このことを言うと、障害のある人に大学教育の門戸を開いて立派だとか誉める人もいるけれど、実際にはぜんぜん違うのです。光島さんが講義に来ることは、むしろぼくのためになっている。「見えない」ことを気にせずに受け入れているわけではなく、「見えない」ことをぼく自身が意識するきっかけになるからです。芸術や哲学の話をしていても、そうした言説がいかに多くの「見る」ことにまつわる比喩、「見えない」ことや「盲目」であることにまつわる言語表現によって成り立っているかが、はっきり意識されるからです。「盲目」はもちろん多くの場合ネガティヴな意味をもつ比喩なのですが、光島さんがいちばん前で聴いているからといって、ぼくはそういう表現を自粛はしません。しかし全員が見える人の前で話している時とは違って、そういう表現を自分が口にするたびに、ある種の痛みのような抵抗感がある。これが重要なのです。前にふたりでせんだいメディアテークでの展示コンセプトについて相談したとき、「バリアフリー」ではなくて「バリアコンシャス」ということを思いついたのですが、これはぼくにとっての「バリアコンシャス」ということです。「バリアフリー」というのは逆に、そういう痛みや抵抗感を避けて通るためのルールやシステム作りという感じがするのです。
光島:そうですね、大学で講義を聴くというのは、ぼくが昔卒業した大谷大学以来2回目のチャンスなんですけど、とりわけ吉岡さんが担当している芸術論や美学というのは、自分がアートをやり始めてからむしろ避けてきた分野なのです。それは、聴いてもきっと分からないだろう、視覚映像の要素が多いだろうとか思っていたからですね。だから、講義をバリアフリーにしてくれとか、そういう気持ちはぜんぜんなくて、ふだんのスタイルのままの講義を聴かせてもらっています。むしろ、意識的に言葉づかいを気にしたり板書を避けてもらったりしたら困るな、と思っています。
吉岡:板書はね、ぼくはもともとしないんです(笑)。
光島:「バリアフリー」については、もちろんぼくもその恩恵はこうむっているわけですが、何か違うなという印象を持ち続けてきて、せんだいメディアテークで作品発表するときに、自分の求めているものはもうちょっと違うところにあるということをお話しさせてもらっていたら、それはむしろ「バリアコンシャス」ではないか?と吉岡さんに言われて、ああ、そうなんやなーと思いはじめたということです。
5月の展示ではバリアフリーをあらわすものとして「点字ブロック」をとりあげるのですが、日本で「点字ブロック」が急速に普及し始めたのは1970年代の後半くらいからです。その他にも段差をなくすとか、エレベータを設置するとか、そうした設備に予算が組まれるようになるのですが、そういうバリアフリー化によって同時に失ってきたものもあるのですね。つまり、点字ブロックが敷設されているからヘルプしなくてもいいだろうと思われるのか、足音が近づいてきたので声をかけても反応してくれない。そういうことを考えると、バリアフリーは良いことなんだけど、バリアフリーだけでは面白くない。
吉岡:より一般的には、電車やバスの「優先席」とかもそうですね。あるのはたしかに良いことなんだけど、それがあることによってそれを必要とする人のことを考えなくても済む、という状況が生まれる。
光島:優先席というのはもうすっかり定着してしまったんですかね。最初はすごく嫌でした。そこに無理やりすわらされる、というのが。優先席空いてますからすわってください、と親切に言ってもらったりするのだけど、その席にしかすわれないのかと思ったりもする。
吉岡:うん、たしかに、優先席がバリアになってるような面もありますね。ところで「点字ブロック」に話を戻すと、この「点字ブロック」という呼び名自体がそもそもおかしいのですよね。
光島:そう、「点字」ではないですからね。(正式名称は「視覚障害者誘導用ブロック」と言う)。それはともかく、これがバリアフリーのひとつの象徴で、しかもある意味非常に日本的なものでもあるのです。あんまり外国に行っても見かけません。韓国など東アジアではみかけますが、欧米にはない。アメリカでは視覚障害者施設の近くに行くと音響式信号機とかもありますが、一般の道路には点字ブロックはありません。滞在制作でサンフランシスコとかに行ったこともあるのですが、なかったですね。そして段差もかなりあったりする。なのに車椅子で出歩いている人も少なくない。そう思っていると、けっこう向こうから声をかけてくることが多いのですね。
吉岡:日本の都市で知らない人同士が声をかけ合う機会は、たとえば30年前と比べたら一般的に減っているんじゃないでしょうか。それはいろんな意味でシステムが完備されて便利になって、人に聞かなくても分かるようになったからなのかな。iPhone とか持ってたら知らない場所に行っても道は分かるわけじゃないですか。それなのに知らない人に声をかけたりするのは、お節介なのじゃないかとか、自分は怪しい人と思われるんじゃないかとか、そういう心理が働くのではないでしょうか。
光島:そうですね、でも街でぼくに声をかけてくれる人の数は、30年前と比べると、総体としては増えていると思います。非常にぎこちないというか不自然な声かけもありますが。点字ブロックがあったとしても、どこでもひとりで安全に行けるというわけではないのですね。今はほとんどのプラットホームに点字ブロックが完備されていますが、それでもちょっと油断したらまたぎ越してしまって転落し死亡するような事故が、年に数回は起きているのです。バリアフリーという言葉に抵抗感があるのは、何をしてもバリアはいたるところに存在し続けているからです。
吉岡:たしかにバリアフリー設備だけで問題が解消するわけではないし、逆にいうと、そもそも「バリア」というのはたんになくせばいい、端的に悪いものだという考え方もおかしいですね。バリアがきっかけになって人と人とが結びつくこともある。バリアは別に障害者と健常者との間にだけあるのではなく、どんな人同士の間にもあるものじゃないですか。
光島:ぼくも若い頃、学生のときに障害者運動に関わっていたりしたときは、バリアはなくすべきだと思っていた時期があるのですが、最近は、バリアというのは生きているかぎりずっと続いていくものなのだから、それを前提にして、いろんな人の協力をえてむしろその裏側を通り抜けるとか、そういうことを考えていかないといけないのではないか、と考えています。
吉岡:作品の中に点字ブロックを使うというのも、そうした裏側を通り抜ける試みのひとつでしょう。点字ブロックというのは、少なくとも日本では見なれたものなので、見える人のほとんどはたぶん、それは視覚障害者を補助する設備であって、それ以上そこに何の問題があるかなどと考えたことがないと思います。だから作品にそれが使われたのを見ても、ああ、これは視覚障害をテーマにした作品だというような反応がまず壁として立ちふさがる。そういう壁の、いわば裏側を通り抜けるということですね。
光島:点字ブロックというのが、見える人と見えない人の間に、いわば立ちふさがっている。点字ブロック自体が、バリアになっている。それは見える/見えないの境界線上にあるものなので、それを主題としてとりあげてみたら面白いんじゃないかな、という発想です。
吉岡:さて、この「みる/さわる だけではわからないかもしれない」というタイトルについてお聞きしたいのですが、この「みる/さわる」の「/(スラッシュ)」はどういう意味なのでしょう?
光島:ああ、そこですね。
吉岡:ぼくはこういうふうに解釈したんです。たとえば絵画作品を見るという経験を考えた時、全盲の人はそれができないから、かわりにそこに描かれているものを凹凸で触れば分かるようにしてある資料とか作られていますよね。いわば「みる」を「さわる」によって置き換えることによってバリアをなくすという発想で、「/」は見ることと触ることの間のそうした単純な置き換えを表している。それでは何もわからないのだ、ということ。
光島:そうですね、いいポイントをついてもらったような気がします。そういう「置き換える」という発想。たとえば見えない人向けの図録とか、ルーブル美術館や大英博物館でも作っているし、日本でも作っています。もちろんそうしたものを作ること自体は悪いことではないのですが、ただ、置き換えても、伝わってくるものは少ないです。構図とかは分かっても、その絵がもっている面白さとか、ワクワクするような感じは、置き換えることはできません。だから今度の作品では、映像を触れるようにするというのはそもそもいったいどういうことなのか、ということを考えさせるものにしたいのです。ただ構図を理解するというようなことではなく、つきつめて考えると、たぶんぜんぜん違うところに突破口があるような気がします。その意味で「みる/さわる」の置き換えではだめで、もっとお互いに複雑な往き来がないといけないだろうな、と考えています。
このタイトルは、昨年夏の「触って面白いものは見たら面白くないかもしれない」の、ある意味継続ですね。そこでは見る作品も触る作品も展示したんですが、見える人が触る作品を経験したとき、すごく敏感にいろいろ感じる人もいるのですが、「やっぱり私の指は鈍感ですね」と感想を言う人もいました(笑)。見るだけで触らない人もいます。さっと一瞥しただけで判断するなよ、と思います。
吉岡:でも正直言うとね、展覧会場で作品に触ってください、と言われた時、なかなか抵抗感があって触れないということもあるんですね。インタラクティブアートなんかの場合もそうなんですが。どうしてかな、と考えてみると、究極的にはたぶん美術を見る、鑑賞するという観念が、「触る」という経験を排除することで成り立ってきたからだと思います。触ることは、自分の身体を具体的な場に関わらせることで、触っている自分の手も周囲の人に見られている。そもそも美術を「見る」という経験は、非接触で対象には影響を及ぼさず、見る人自身の身体は他の人に見られないということを前提にしています。つまり見ることは本質的に「のぞき見」なのです。もちろん実際には、他の鑑賞者の身体も自分の身体も見えてはいるのですが、それらはあたかも、ないものであるかのように経験される。自分の前で見ている人の肩や頭はたんに邪魔なだけの障害物です。触ることに対する抵抗感は、ようするに自分自身の身体を晒すことに対する抵抗感だと思います。
光島:ぼくなんかも、ブロンズ彫刻の裸婦とかを触るときには、見られていることを意識しますね。といってもそれはみんなが思っているような、エロティックな経験ではぜんぜんありません。
吉岡:歴史的に見ると美術の経験というのは、昔は美術館みたいなものは、なかったわけじゃないですか。だから何か面白いものをコレクションしている王様とか貴族が、それを自慢してみせびらかしたのですよ。そうした時には、互いの身体がその場に存在していることは当り前です。作品は近くで見るし、手にとったり、手にとって見ている相手の身体も見えるし、自分も見られているのです。見ている身体も見られているのが当たり前、という環境ですね。音楽でもそうで、宮廷の晩餐会みたいなところでお酒を飲んだり談笑しながら聴いていた。だから身体の現前はあたりまえです。それが、19世紀にコンサートホールで聴くという形式が一般化して、観客はあたかも身体を持たない存在であるかのような聴き方が、音楽を聴くということのモデルになった。
光島:あー、なるほど。
吉岡:その結果、美術館では、その場で見ている他者の存在すら意識したくない、という態度が広がりましたね。
光島:前にも、「言葉で美術鑑賞」という企画で行った美術館で、それはわりと静かな、陶磁器とか置いてある美術館なんですが、学芸員だけじゃなく他の観客からすごいクレームが出たことがあるんです。「静かに鑑賞したいと思って来たのに、この騒がしい状況は何事か!」と怒鳴って帰った人がいたらしい。その時、美術館というのも、何か露わにしてはいけないことを抱えている存在なんだな、と思いました。いまのお話を聞いて、なんでそんなに邪魔にされるんやろなーと思っていた理由が、少し分かってきました。
吉岡:そういう傾向も、ぼくの印象では日本がいちばんきついですね。
光島:作品に触るということについては、この間ある学芸真の人としゃぺっていたら、触るということは作品の「保存」という観点からみても、ダメージを与える、美術館としては困りますねー、みたいなことを言われました。でも作品なんて、いくら保存しても限界があると思うのですが。
吉岡:うん、保存ということを単純に考えている人たちは、いったいどうするつもりなのかと思いますね。文化財だとか国宝だといったって、いったい何時まで保たせるつもりなのか。
光島:触ることはその、消耗する期間を早める。だからこそぼくは、触ることによってその期間を早めることに意味があるような気がしているのです。触ることに積極的な意味を持たせたいのです。
吉岡:美術館は保存と展示という、明らかに矛盾するふたつの機能を担わされています。展示すれば消耗する。触らなくても、光が当たるだけでも作品は劣化しますよね。だから極端にいえば、ふつうの人は本物と区別つかないような高品質のデジタルの複製品を展示して、本物は温度や湿度も管理された真っ暗な倉庫の中で永久に保存する、ということだって考えられます。そういうことは進んでいくと思いますね。そうなった時に重要な問いは、そこで私たちはそもそも何をやっているのか?ということです。
光島:それが、ぼくも保存ということについていちばん疑問に思うことです。もちろん単純な意味では、自分の作品は残ってほしい。でも完全な保存ということにあんまりこだわると、そもそも何をしているのか分からなくなる。それが自分の作品の中で「触る」ということをとりあげたい、理由のひとつなのです。