以下のテキストは、2013年3月17日(日)16:30-18:00 に、京都造形芸術大学舞台芸術研究センター「ダンス・ゼミ&ラボ」で、若いダンサー・コレオグラファー10人に対して行った講義の配付資料です。2週間にわたる連続セミナーの中日で、非常に集中した時間だった。芸術分野ですら即戦力ばかりが求められがちな今の時代、こういう養成プログラムは本当にすばらしいと思う。講義は非公開だったのですが、何の話をしたのか教えてほしいという希望があったので掲載します。レジュメそのままなので少々読みにくいですが。
〈あたま〉で考え、〈からだ〉を動かす、と私たちは言う。そのことは一見「あたりま え」のように思える。こういう「あたりまえ」を疑うこと、あるいは「あたりまえ」が疑 わしいものとなることが「考える」という行為であり経験である。行為としての側面から みれば、考えるとは疑問視すること、受け入れないこと、拒否することである。経験とし ての側面からみれば、考えるとは、世界から自明性が脱落すること、見慣れたものが驚く べきものとして立ち現れてくることである。
考えることは能動的でもあり受動的でもある。それは、考えることがひとつの身体運動で もあるということを示唆している。すべての身体運動は、能動的であると同時に受動的で あり、純粋に能動的であったり、もっぱら受動的であるような運動は存在しない。身体運 動のない純粋な思考(ロダンの「考える人」のような)といったものはない。
ここで言う「考える」とは”reasoning”(推論)ではなく”reflection”である。"Reflection"と いう言葉には、「反射」と「反省」という意味が重なっている。反射には、生理的反射や 条件反射がある。いずれも、自動的である。一方反省とは、自分で自分を視ること、 フィードバックが含まれる。それは自動的ではありえない。なぜなら、そこには時間の遅 れと自己の分裂(視ている私は視られている私ではない)が、必然的に伴うからである。 考えることを〈あたま〉の働きとし、「動く」ことを〈からだ〉の働きとするのは二元論 である。二元論的から出発すると、〈あたま〉が〈からだ〉をコントロールする(あるい は、すべきだ)という図式が生まれる。これは図式であって現実ではない。
現実には、〈あたま〉と〈からだ〉は同じものである。 けれどもこの「同じ」とは、論理的に同一という意味ではなくて、動的に重なり合う(同 一性は運動=思考の中でのみ理解される)という意味である。このことを図式してみよ う。 〈あたま〉は〈からだ〉の一部である。一方〈あたま〉の中には〈からだ〉のマップがあ る。両者は、それぞれ互いを含み合っている。〈あたま〉と〈からだ〉が異なったものと 見えるのは、解剖したときだけである(本当に解剖しなくても解剖的な図式を描けば同じ こと)。ところで解剖しうるものは死体であり、死体とは〈からだ〉ではなく、〈から だ〉の抜け殻であり、図式である。すべての図式は過程であり、手段であって、目的では ない。
考えることは「計算する」ことではない。考えることは、むしろ計算に介入しそれを止め る行為、あるいは計算が不可能となってしまうような経験である。考えることは運動であ り、計算とは記号操作である。考えているのか単に計算しているだけなのかは、「摩擦」 や「抵抗」の感覚の有無によって、判別できる。思考は摩擦と抵抗を伴うが、計算=記号 操作にはそれがない。それがないことが計算=記号操作、つまり情報処理の大きな利点で ある。情報化された世界とは、摩擦と抵抗のない世界である。現代文明においては、この 側面が過剰に肥大している。そこでは思考は計算へと矮小化される。
もう少し社会的な文脈で言い直してみよう。考えるとは、「自然に身についてしまった偏 見を捨てる」という身振りである。この身振りが、René Descartes の "Cogito ergo sum" の意味の中心である。それはまた「啓蒙」(つまり教育)の核心でもある。 なぜ、偏見 が「自然に」身についてしまうのだろうか? それはどんな人もたまたま生まれ落ちた 「共同体」の中で育つからである。そのこと自体は、良い事でも悪いことでもない。共同 体——家族から国家に至るまで——とは、人を育み、かつ縛る、両義的な条件である。
考えるとはいわば、そうした共同体と、少なくとも一時的に決別することである。つま り、孤独になることである。といっても、孤独を求めてそうなるのではない。人が孤独に なるのは、より深い連帯を求めるからである。連帯は孤独を通してしか到達できない。 孤独と連帯とは対立するものではなく、ともに発展してゆく。孤独になりえない人は、真 に連帯することはできない。たまたま同じ境遇にいることは、連帯ではない。伝統的共同 体には連帯はなく、その中で人々はバラバラである(だからこそ因習や掟が人々を縛る必 要がある)。国家主義的な熱狂の中では、人々はさらにバラバラにされている。ドイツの ナチズムの高揚や、軍国主義時代の日本の万歳三唱の中で、人々はいちばん引き裂かれて いる。そうした粘着性の共同体の中では、人々は自分たちが孤独だということを知らない から、絶対に連帯することはできない。
戦争や大災害のような社会的な危機に直面すると、表現者はそうした切実な問題をみずか らの表現活動の中に反映したいという、強い誘惑にかられる。だが、そうした「問題」が みずからの身体の外部のどこかに存在していると考えているかぎり、それは二元論であ り、図式的である。そこでは〈あたま〉が〈からだ〉を支配しようとしているのである。
〈こころ〉とは何か? それは、このように〈あたま〉と〈からだ〉の関係を看取しうる ような、関係性の広がりのことである。〈こころ〉は人間の脳や知性に限定されない。動 物にも〈こころ〉があるか?という問いは意味をなさない。〈こころ〉とは実体でも属性 でもなく、何か「内的」なものですらなく、思考=運動を許容する空間のことだからであ る。〈こころ〉とはメタ的な存在、というよりも、「メタ」それ自体のことである。〈こ ころ〉の存在はみずから思考=運動を実行することを通じてしか確認できない。