昨夜寝る前に「SNSは批評的でありうるだろうか?」という記事を書いた。明日の「メディア芸術コンベンション」のために、何か関連したことをもうひとつ書いて盛り上げようとしたのだが、疲れていたのと早く寝なきゃという焦りであんまりうまく書けなかった。それでも一晩で100人くらいの人が読んでくれたみたいだが、今朝自分で読んでみると、どうも気に入らない。
それで一度公開中止して書き直そうと思った。けれども一度公開してしまったものをあとで書き換えるというのは、それができるのが電子的媒体のいい点でもあるとはいえ、どうも気分がよくない。最初のバージョンを読んでくれた人に失礼なような気もする。それに、疲れていたり焦っていたりするときにはガードが緩んでいるので、ぼくの作文はもともとガードの固いほうではないが、さらに緩むとこんなになるという例としても面白い。それで、本文はそのままにして十数時間前の自分に対してツッコミを入れてみることにした。
ぼくは、「テクノロジー決定論者」ではない。
なぜこんな宣言的な書き出しをするのだろうか? 「私は○○ではない」という宣言は、多くの人に「○○」だと思われている(と自身思っている)時か、さもなければ、自分自身に対してそれを否認したい時になされるものである。夕べのぼくの場合はおそらく後者であり、もしテクノロジー決定論をとらなければ、ネットワーク環境における批評性という問題に対して何が言えるだろうか?ということを知りたいためにこんなふうに書き始めたのである。
ちなみに、このブログに書くようなエッセイのほとんどは、最初から何か書きたいことや結論が決まっているのではなくて、正直なところ最初はモヤモヤした風景しか見えてないのである。将棋の指し手のように、書いてゆくとしだいに道筋が限定されて景色がハッキリしてくる。自分の思考したことを文章化するのではなく、ヘンな言い方だが、文章自体が思考して一定の方向に導いてくれ、自分が何を書きたいのか教えてくれる、というような感じである。
ときおり「私もエッセイとか書きたいけど書くことがない」といった不思議な相談を受けることがある。「勉強したいけどどの本を読んだらいいか分からない」といったのと同様の相談である。書くことが分かってるのならわざわざ書かなくてもいいのである。自分が何を考えているのか知るために書くのであって、エッセイとはそういうものである(論文とかは、また話が違う)。書くことがないというのは書きたくないということであり、どの本を読んだらいいか分からないというのは本なんか読みたくないということなのである。
テクノロジー決定論者というのは、新たな技術革新が人間の知覚や行動の様式を、もはや後戻りのできない仕方で変化させてきたと信じている人たちのことである。それは19世紀産業革命以来の、進歩主義の一種である。そこでは、ある技術革新が起こると、それが到来する以前の努力はすべて無効になってしまうか、無効とまで言わなくても、たんなる前段階として位置づけられてしまう。
「テクノロジー決定論者」をまるで他人事のように説明しているが、書き出しの宣言口調から考えても、これは自分をそうした立場から切り離したい、という頑なな努力がみえる。ちょっとムキになっているようでもある。
ぼくから見ると、テクノロジー決定論者とは、まことにおめでたい人たちである。だってその考え方にしたがえば、後に生まれるほどトクということになるんだからね。神さまが、そんな不公平なことをするわけがないだろう。テクノロジー決定論というのはようするに、変化する時代について行けない年長者が、元気な若者たちに嫉妬してひねり出した思想なのであり、自分はまだ若いよ!と主張したい、みっともない老人の淺智恵なのである。
これは何というか、不規則に感情的なものが発露している段落である。たしかに「メディアが変わればすべてが変わる」みたいなことを言い立て人々を騙している人たちのことを、腹にすえかねているのはわかる。「まことにおめでたい」とか「みっともない老人の浅知恵」とか、かなりひどいことを言っている。そこまで言わなくてもいいだろうと思う(今は)。そして、テクノロジー決定論者をまるで悪者のように言っているが、私たちはみんな多かれ少なかれテクノロジー決定論者であり、そこから逃れることは不可能とも思える。そのことに対する苛立ちが、冒頭の宣言を導いたのかもしれない。
たとえば、人類最初のテクノロジーである農耕は、けっして人間の生存条件を劇的に改善して文明の高度化をもたらした技術革新などではなかったはずである。ぼくはそのように想像している。狩猟採取の生活の方が、実は楽で効率的だった。初期の農耕は、労働時間も長く失敗も多くて非生産的だったに違いない。それではなぜ人類は狩猟採取の生活から農耕牧畜に移行したのか? それは、植物や家畜を自分でいじくって変化させるのが、面白かったからにほかならない。変化をもたらしたのは、美的・遊戯的な理由なのである。
ぼくの得意とする、突拍子もない飛躍である。人類学的な根拠がまったくないわけではないが、こうした極論を唱えるのはそれを真理だと主張したいからではなくて、「もしこうだったとしたら…」という可能性を考えることで、現在私たちが信じている通念を疑うためである。進歩主義を疑うのは、進歩などなかったと主張したいためではない。なぜ私たちは、現在を進歩という概念によって根拠づけたいと思ってしまうのか?ということを反省するためなのである。
では過去約20年間に及ぶインターネットの普及は、私たちがものを考えたり意見を交換したりする点において、何か後戻りのできないような重大な進歩をもたらしただろうか? もちろん、変化はあった。それは否定できない。しかしネットの普及それ自体は、利便性とか歴史的必然とかではなく、とにかく何をおいても「面白かった」から広がったのだと思う。そうした変化に何か重大な意味を付与するようになるのは、それが普及し成功した後からなのだ。ぼくたちがたまたま今、グローバルなネットワーク社会に生きているのは、どの時代のどんな家の子供として生まれるかと同様に、ただの偶然である。
歴史的変化をもたらす美的・遊戯的な要因と、それが忘れられ新たな状況が確立された後でなされる必然性の説明。それに対して偶然性という視点、「今たまたまこうなっている」という意識と「世界はまったく違ったあり方も可能だったのではないか?」という懐疑を持つことは、批評的精神のコアだとぼくは思っている。エルキ・フータモの「メディア考古学」が面白いと思っている理由も、べつに昔の珍しいメディア機器に関する骨董的興味からではなく、その社会的機能や人々の意識について考えることによって、メディアの進歩という単線的な物語を脱構築し、メディアの発達はまったく異なった経路をたどることもありたのではないか?という問いを可能にするからなのである。それはメディア考古学自体が持つ批評的なはたらきであると思う。
さて、SNSは批評的でありうるだろうか? これは、いよいよ明後日から始まる「第3回メディア芸術コンベンション」のテーマ「異種混交的文化における批評の可能性」ということを考えていて、いま頭の中をよぎった問いである。新しい「批評」のスタイルということに関して、ツイッターやブログ、フェイスブックなどでも話し合ってきたが、ぼくはそうした新たなネットワークやコミュニケーションの仕組みが、ただそうしたものがあるというだけで、新しい批評の可能性を開くなどとはけっして思わない。あるシステムがそのシステムであるということだけで、何か重要なことを自動的に可能にするなどということは、ないのである。
やっと、タイトルの問いにたどり着いた。ようするに、新しいテクノロジーやメディアの形態だけに過剰に期待するだけではダメだよ、ということが言いたいのだろう。たしかに、ツイッターやフェイスブックはアラブの春をもたらした。しかしこれは一種の比喩なのであり、本当は政治的変革を求めて人々を連帯させるエネルギーがあり、それがSNSというメディアを通して現実化したのである。警戒しないといけないのは、この比喩を文字通りの因果関係として理解すること、つまり「ツイッターやフェスブックがあれば世界は変わる」と思い込むことである。これは信仰であり、私たちの想像力や行動を促進するよりもむしろ阻んでしまう。前に書いた記事で、ネットの前に座った身体が冷え切っている、と指摘したのもそうしたことである。
けれども、そうしたシステムを使うことが面白いと思えるなら、そこには希望があるとも思う。そのかぎりにおいてSNSは批評的でありうるが、それはSNSというシステムがそれ自体として可能にすることではなく、SNSを使う私たちひとりひとりの工夫や覚悟によって可能になることなのである。「批評」という活動が今後も意味をもつとすれば、それは自分の賢さや博識を示したり、論争のための論争を演じたりするのではなく、最新の事象や作品を通じて、この世界のあり方について根本的な思考を開き、それを人々と共有することを目指す言語活動とならなければいけないだろう。そのために、SNSという仕組みが活用するのはすばらしいことである。
とにかく「面白い」ことが大事、というコンクルージョン。だがこの段落はやや力不足で、それ自体はクソ真面目すぎてあんまり面白くない。「ひとりひとりの工夫や覚悟」とか、なんか校長先生の朝礼みたいである。「面白い」ことの重要性を主張したいなら、その主張自体が面白くなされなければ無効である。そこからすれば、「異種混交的文化における批評の可能性」なんてタイトルも、これだけ読むとちょっとクソ真面目すぎるとは思う。ようするにポイントは、いかにして批評を面白くするか、それも表面的なネタの面白さとかではなく、深く根本的に面白くするのか?ということだと、ぼくは理解している。
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