2月23日の土曜日には、IAMAS(情報科学芸術大学院大学)の卒業制作展を観に行き、その催しのひとつであるトークイベント「これからの科学と芸術」を聴講した。同校教授の作曲家三輪眞弘さんと、物理学者の池上高志さん(東京大学)、明和電機の土佐信道さんをゲストに迎えた鼎談である。
前半は3人それぞれの活動紹介と、芸術観の違いなどが話し合われたが、このトークイベントで唯一論争に近いところまで発展しかかったのは、後半3分の1くらいにおける、主として池上さんと三輪さんとの間でとり交わされた議論であった。争点の中心をぼくなりにパラフレーズすると、ようするに宇宙における「人間」の地位をめぐるものである。
三輪さんが2000年以来追求してきた「逆シミュレーション音楽」では、完全に規則に従った機械(コンピュータ)の動作を、人間のパフォーマーが演じることになる。規則(楽譜)自体が音楽作品なのではなく、それを人間の身体が演じることが必要条件である。このことは、録音(音響情報の記録・再生)を音楽とは認めず、生身の身体によって演じられる出来事だけを音楽と呼ぶ彼の徹底した音楽観とも密接にかかわっている。
作品をあくまでこの世界の中に実現されたものとして捉えるこの視点は、池上さんも共有している。「マインド・タイム・マシーン(MTM)」(2010年、山口情報芸術センター(YCAM))などの作品制作の経験を通じて、賢い神経回路網を設計することよりも、実世界の中で長い時間自律的に動き続けるシステムを考えることの方がはるかに難しい、という。生命というのはそういうシステムであり、芸術とは彼にとって生命を経験させる仕掛けなのだが、そこにおいては人間や人間の身体が特別な意味をもっているわけではない。
では三輪さんの芸術観においては、なぜ人間に特別な意味が与えられるのか? それは彼にとって作品の実演とは、作者や演奏者が観客に対して何かあるメッセージや効果を伝える、といったことが重要ではなくて、作り手でも受け手でもない超越的な第三者に対してその演奏を捧げる、「奉納」するという点に本質があり、そうした「奉納」をなしうるのは人間だけだからである。そうした第三者はかつては「神」と呼ばれていた。現代では私たちは共通の「神」を失ってしまったが、それでも、臨在する第三者への「奉納」がなければ、芸術は成立しないのだという。
芸術の本質は「奉納」であるというこの考え方を池上さんは即座に理解した。さすがである。だが彼が同意しないのは、「奉納」は人間にしかなしえないという最後の点である。こんなところに「人間」を持ち出してしまっては、宇宙の中心に人間を置く古い形而上学への後退である。そこで次のような問いを投げた。それではNASAの火星探査機である"Curiosity"が、火星の上で土を採取するような活動、それは「奉納」ではないのか?と。三輪さんは一瞬考えたが、「奉納」には人間の身体が必要条件ということから、それは「奉納」ではないと仕方なく(とぼくには見えた)答えざるをえなかった。
実は、三輪さんは火星に「奉納」が成立するという考えに反対してはいないのだとぼくは解釈する。彼が「人間」にこだわるのは、人間中心主義の宇宙観に戻ろうとしているのではなく、強い倫理的な関心によるものだからである。FacebookとGoogleが新たな科学賞を設立してiPS細胞の山中教授にノーベル賞の2倍の額を授与したニュースに彼は言及する。科学の名の下に生命の支配と管理が容赦なく進行するこの世界において、芸術はそれに抵抗するものでなければならない。三輪さんの言う「人間」とは、古いヒューマニズムの意味ではなく、そうした抵抗の拠点という意味である。
一方池上さんも、本当は「奉納」に人間が不要と考えているわけではない。(原理的にいえば科学ほど人間を自明の前提としている認識活動はないのだが、これは別な機会に論じたい。)"Curiosity"が火星上で土を採取することが「奉納」になりうるのは、その光景をイメージしそれをある種の芸術行為として理解する人間がいるからである。火星探査機はたしかにそれ自体はロボットであるが、それは何億キロもの距離を隔てて、実は人間的身体と繋がっているのである。"Curiosity"を通じて私たちは火星上に存在しているのであり、そしてそこにはもちろん、その行為が捧げられる「第三者」もまた臨在している。
ぼくはこのように解釈した。だから「人間」云々の問題に関しては、そこに重要な争点は存在しない。火星上に「奉納」は成立する。トークイベントは時間切れという感じで終わったが、もし次の機会があればぜひこの地点から議論を出発させたいと考えている。