以下の文章は、先日の「世界メディア芸術コンベンション」第1日目(2月16日)の最初に行った基調講演「雑種・混交性と批評の再生可能性」の原稿です。
この「メディア芸術コンベンション」は2011年の第1回以来、今回で3回目を迎えます。わたしはその第1回目から座長として企画立案を担当してまいりました。この仕事自体は、たしかに文化庁からの依頼を受けて始めたものですが、会議の内容や方向性に関しては、国からの指示や指導といったことは(私自身が意外に感じたほど)何もありませんでした。したがって、この会議の内容と方向性に関しては、わたしが最終的な責任を負っているということになります。
今回はじめて参加されている方もいらっしゃると思いますので、この会議のそもそもの成り立ちと位置付けについて、改めて確認するところからはじめたいと思います。この会議は、文化庁が過去15年にわたって開催してきた「メディア芸術祭」という催しと密接に関係するものとしてスタートしましたが、メディア芸術祭に出展される個々の作品について議論することを意図したわけではありませんでした。ましてや、国際的に人気がある日本のマンガ、アニメ、ゲームなどのプロモーションをするとか、それらを「芸術」の地位に昇格させることを意図したわけでも、もちろんありません。
この会議において話し合いたかったことはむしろ、「メディア芸術祭」のようなイベントが、今日の文化の中でどんな意味を持っているのか? こうした催しがカバーしている文化領域は、伝統的な芸術文化(たとえば「ファインアート」としての美術や、日本の伝統芸能、等々)とどのような関係にあるのか? そしてそもそもこの、英語には翻訳できない「メディア芸術」という概念は、いったい何を意味しているのか? といった原理的な問題です。つまり「メディア芸術コンベンション」は、その成立当初から、メディア芸術祭に従属する会議ではなくて、現実の「メディア芸術祭」からは距離をとりつつその背景について考察する試みであり、「営業的」「戦略的」な立場ではなくて「批評的」な立場をとってきたと言うことができます。
2011年に行なった第1回には、「〈メディア芸術〉——その地域性と普遍性」というテーマを設定しました。「メディア芸術」という翻訳不可能な日本語の言葉それ自体を問題にしました。けれどもそこでは、「メディア芸術」という言葉について、それは文化政策上の必要性から捏造された中身のない概念であると非難することが目的だったわけではありません。むしろ、このような語が作り出されねばならなかった芸術と文化の今日的状況を議論の俎上に乗せ、それを私たち全員の問題として、かつ世界的な文脈において考察することを目的としました。言い換えればそれは、「メディア芸術」という概念をあえて真正面から受けとめるという作業を通じて、私たちを取りまく芸術文化の変容をあぶり出そうとする、批評的な試みだったと言えると思います。
昨年の第2回には「想像力の共有地(コモンズ)——現代社会はマンガとアニメーションによって何を共有しうるのか」というテーマを考えました。この2回目の会議の目的は、マンガやアニメーション〈について〉話し合うことではなく、マンガやアニメーション〈を通して〉、あるいはそれら〈と共に〉、私たちは何を共有できるのか、つまり文化と社会との関係に対する問いかけです。多くのマンガやアニメーションにはファン、マニア、オタクといった支持者がおり、そこで形成されるグループは狭いカルト的な集団から、世代や性別を跨がった比較的広い受容層まで、さまざまです。そうした状況に対してこの会議で問いかけたかった中心的問題とは、いってみれば、マンガやアニメーションに対して、その「支持者」として〈以外の〉関わり方は不可能なのだろうか?ということです。「支持者」以外の関わり方というのはまさに、それらの領域に対する批評的な関わり方の可能性を問うものでした。
これら過去2回の議論の成果を踏まえつつ、今回は「異種混交的文化における批評の可能性」というテーマを掲げました。つまり、過去2回においても様々な議論が最終的にはそこへと収斂していった、現代の芸術文化における「批評の可能性」という問題を、今回は最初から明示的に取りあげることにした、ということになります。けれどもただ「批評の可能性」といっても、「メディア芸術」のような問題的な言葉を必要とするまでに複雑化した現代の芸術文化の状況において、批評活動が有効に働くためには、私たちは従来の批評モデルにそのまま固執していてはならないとも考えます。批評の「復興」とか「再生」とか言っても、それは同じものをもう一度復活させるという意味であってはならないし、そもそもそんなことはできないと思います。
そこで、従来は批評的言説を弱体化させる条件と考えられてきた、文化的な雑種性あるいは異種混交性(hybridity)の中に、むしろ新たな批評的実践の可能性を探ることはできないだろうか、という問いかけが、この第3回目のテーマであると言うことができます。そこで、そうした批評の可能性について考える前に、まずここで「雑種性」と呼んでいるものは何であるのか、「異種混交的文化」という言葉で何を言い表そうとしているのか、といった事柄について、わたしの考えをお話ししたいと考えます。
そのためにまず「メディア芸術状況(state of "media arts"?)」という言葉を捏造してみたいと思います。これは先ほどから述べている、「メディア芸術」という語を作り出すことを余儀なくさせた、変容した現代の芸術文化の状況を言い表すために作った呼び名です。マンガ、アニメーション、ゲームなどの中に、たんなる使い捨ての文化的消費材としての価値だけではなく、耐久的な美的価値が存在すること自体を否定する人は少ないと思いますが、同時にそれを旧来の「芸術」概念の中にそのまま包摂することにもまた、多くの人は無理を感じています。それで「メディア芸術」のような概念を作って、「芸術」的価値との間に緩やかな関係を保ちつつ、新しい領域として扱っている、というのが現状だと思います。
「メディア芸術」の中の「メディア」という語は、わたしの理解では、マスメディアのことでもデジタルメディアのことでもなく、マンガ、アニメーション、ゲームのような文化を「芸術」へと媒介する(mediate)ために付加されているのであり、それはこの「メディア芸術」の中に、直接「芸術」領域に属する「メディアアート」という領域が含まれていることと、同じ役割を果たしていると思います。つまりわたしが「メディア芸術状況」という造語で名指したいのは、従来の分類秩序が成り立たなくなり、カテゴリーの階層が混乱しているような文化状況のことであり、そのために現状に合わせて名付けようとすればするほど、ますます内実の空疎な呼び名を捻出せざるをえないような状況のことです。
けれどもわたしが「メディア芸術状況」と呼ぶものは、何も特殊な奇形的事態ではなく、現代文化そのものを取りまく状況でもあると思います。たとえばこの会議には大学関係者が多いのでその文脈で言うなら、改組・新設される学部や学科などの名称もまた、一見何も意味しないような言葉、そして英訳も不可能な言葉によって現状を言い表そうとするような状況に陥っています。たとえば「マネジメント創造学部」(甲南大学)、「現代人間科学部身体環境共生学科」(和光大学)、「シティライフ学部」(宇都宮共和大学)、わたしの前任校である「情報科学芸術大学院大学」とか、いわゆる「キラキラネーム」と呼ばれる名称です。こういう例を出すと語弊ががあるのかもしれませんが、別に個々の大学や学部名を揶揄しているのではなく、その背後にある言語の状態のことを言っているのです。わたし自身の本務校で言うなら、わたしが学部生として卒業したのは文学部の哲学科でしたが、現在教職にある同じ場所の名称は学部が「基礎哲学文化学系」で研究科が「思想文化学系」となっています。さすがにそれほど「キラキラ」ではありませんが、「思想文化学」っていったいどこに意味の切れ目があるのか分からない、といまだに感じます。昔の京大の先生だったら「思想文化学」などという学問はない!と激怒したかもしれません。
わたしはこうしたことすべてを含めて「メディア芸術状況」と呼んでみたいのです。つまりそこでは、言葉が信用されていない。言葉に意味のあることが、意味には本質があることが認められていないのです。言葉はむしろ、表層的で流動的な記号として解釈され、その組み合わせによってさまざまな効果を産み出す部品のように使われています。けれどもよく考えてみると、これはけっして現代に限られた現象ではなく、より広い視野からみるならば、日本語という言語環境そのものの特徴であるとも思えます。突飛な例ですが、ほとんど意味の分からない英語やフランス語の組み合わせで作られる店舗や商品の名称や、かつては堅実なイメージが好まれていた銀行など金融機関の名称や、その土地や風土とは何の関係もないカタカナ語の組み合わせで造られる集合住宅のネーミングを想像してみればいいと思います。
「メディア芸術状況」とわたしが呼ぶのは、こうした日本語の中に本来備わっている記号的な流動性、組み合わせの自由度の高さや恣意性、意味の表層性といった性質が、かつては「お堅い」ものが好まれた公共施設や金融機関の名称に影響を与えるようになり、そしてついには、明治以来欧米中心の言語的規範の強い影響下にあった、大学教育や芸術文化といった領域にまで侵入してきたということだと思います。逆にいえば、これまで大学教育や芸術文化を支配してきた欧米中心の言語的規範は、そこまで弱体化したということ意味しているのだと思います。そうしたことが、「メディア芸術」というような語が作り出される背景にある状況だと考えています。
「メディア芸術状況」という(かなり無理な)ネーミングについて述べてきたのは、現代日本の文脈において文化的な「異種混交性」を考えるとき、上に述べたような認識が不可欠だと考えたからです。文化的異種混交性、あるいは異種混交的文化という言葉は、それ自体ではさまざまなことを意味します。普通の意味では、近代日本文化は世界の他の文化と比較して、特に異種混交的とは呼ばれないと思います。むしろ他のアジアや、ラテンアメリカ、アフリカの旧植民地国の文化や、多民族・多言語を擁する多くの国の文化の方が、異種混交的と呼ぶにふさわしいのではないでしょうか。それに対して日本文化はむしろ、言語的にも地域的にも画一性の高い文化として、少なくとも表面的にはみえるのではないかと思います。
本会議のテーマにおいて現代日本文化を特に「異種混交的」と呼んだのには理由があります。それは、いわゆる旧植民地社会や階級的特徴が強い社会においては、特定の文化とそれを享受する集団とは、出自や富や教育の程度などによって比較的はっきりと分かれており、異種混交的といってもそれは、その国や社会が様々な文化を擁しているという意味であって、一個の文化的主体としての人間の内部に異種混交性が存在しているという意味ではないと思います。それに対して近代の日本、とりわけ戦後の日本文化においては、ひとりの人間の内部に様々な起源を持つ文化的アイデンティティが上書きされることによって、重層的な文化主体が大量に産み出されており、それがひいては「メディア芸術」を支えていると思えるからです。
簡単な例をあげるなら、それはギリシア哲学やドイツ古典哲学を専門とする研究者が、同時に萌え系アニメのファン(オタク)であったり、美術史学者が韓流ドラマにハマっていたり、フランス現代思想を大学で講じる教授が一日何時間もネットゲームに費やしていたりするということが、それほど違和感なく受け入れられているということです。こうした現象の面白いところは、ある領域(たとえば自分の研究対象)に関しては、きわめて高度な抽象的概念操作や批判的吟味をしている同じ人が、自分の「趣味」であるマンガやアニメやテレビドラマに関しては、非常に直接的でナイーヴな態度をとり、そのことに少しも矛盾を感じていないということなのです。もっともこうした主体内部における異種混交化は、ポストモダン以降多少とも世界的に進行していると思います。つまり日本に特有の現象ではなく、多かれ少なかれ現代文化において普遍的に見られる側面ですが、日本ではとりわけ顕著に現れているのではないかと思うのです。
このことは、しばしば指摘される日本における文化受容者の階層的構造にも関わっています。欧米社会に比べて、日本では高度な学問や芸術文化を受容する階層と、大衆文化、サブカルチャーを受容する階層とがそれほどハッキリ隔離されてはおらず、かなりの部分がオーバーラップしています。別な見方をすれば、それは比較的高いリテラシーをもつ文化受容者が、中心部にかなりの数存在しているということであり、ずばぬけた教養を持つ超エリート階層もほとんどいない代わりに、リテラシーのきわめて乏しい最下層も比較的少ない。トップもいない代わりに、ボトムもいないのです。そのかわりに、比較的小さな差異を持つ集団が真ん中に大量にいるということです。
ぼく自身の教養のバックグラウンドは主としてヨーロッパの近・現代思想なのですが、それを担った思想家や哲学者たちの多くが、上のような意味で自分とはまったく異なった環境で教養形成をしてきたことははっきり分かります。だから、おなじ哲学の研究者といっても、彼らの書くテキストと自分の書くそれとが、同じ意味を持っているとは思いません。それは優劣の問題ではなく、書くという行為の意味が違うのです。欧米の思想家たちは突出してレベルの高い知識人の集団の中で書いており、それが読書界や大学教育などを通じてじわじわとより一般的な知識レベルの人々の中に広がっていきます。それに対して、ぼくやぼくの同僚の多くは(戦前の京都学派とか九鬼周造のような思想家はちょっと違いますが)、中央でダンゴのようになった文化受容集団の内部で、自分と比較的差異の少ない他の人々に対して書いているのだと思います。このコンベンションのようなものも、そうした文脈で理解できる活動だと思います。
この会議の文脈において「異種混交的文化」とぼくが言っているのはそういう意味であり、先に述べた「メディア芸術状況」というのもそうした文化的条件の中から生じています。さて、こうした状況を踏まえたうえで、批評の可能性ということを考えてみたい。それは批評を、ボードレールやTSエリオットやヴァルター・ベンヤミンのモデルで考えることができるかということです。この会議には最初、雑誌『オクトーバー』の編集長でありぼくが室井尚さんとの共訳で日本語訳した『反美学』の編者であるハル・フォスター氏をお呼びする計画がありましたが、彼もまたモダニスト的なハイカルチャーとしての批評文化の系譜に属する人です。
近代的・モダニスト的な批評家像とは、支配的な文化から距離をとり、あえて社会の周辺や異文化との境界に身を置き、内的な理想と幻滅させる現実との間に引き裂かれて、メランコリアの状態に生きながら、新たな芸術的試みや都市の変容や日常生活の細部の中に、未来的な救済の暗号を読み取っていくというような、まあそのような存在としてモデル化できると思います。仮にこれを「ベンヤミンの亡霊」と呼んでもいいかもしれない。(こう言ったからといってベンヤミンを揶揄したいわけではなく、それどころからベンヤミンやアドルノやアイザイア・バーリンのような反省的思想家たちは、ぼくの哲学的思考の根幹を鍛えてくれた人たちなのです。「亡霊」という理由は、ぼくはベンヤミン自身は、本当はもっと生々しい存在ではないかと考えているからです。)
ぼくはこうした「亡霊」が、近代日本における批評および批評家のイメージにずっとつきまとっていて、それは現代の専門化された文化領域内部での批評活動や、サブカルチャー批評、オタク批評といったものの中にも、極小化された形で反復されていると思います。こうしたことを言うに当たって誤解してほしくないのは、ぼくは現在行われている批評的実践について、その個々の内容がつまらないとか、批評家が無能だとか言っているわけではまったくないということです。またここで批評と言っているのは、職業的な批評家の書くテキストのことだけではなく、学問的研究にも、作品制作活動にも、日常のお喋りにも含まれているような、言語の批評的な働きのことです。ぼくがここで問題にしているのは批評的なもの一般が置かれている社会的文脈、批評的行為が置かれているそもそもの枠組やそれが果たす機能なのです。
それでは、先ほど取りあげた異種混交的文化という条件の中で、新たな批評の可能性をどのように考えているかについてぼくの考えを述べることで、この最初の基調講演を結びたいと思います。一昨年、京都の大覚寺にフランス人のメディアアーティストを呼んで開催された"Out of Place"という展覧会があり、ぼくはそれに文章を寄せたのですが、このタイトルにあるように「場違い」なことをする、という点に、ぼくはある意味希望を見出しているのです。私たちは多かれ少なかれ、大学や学会、アーティストのグループ、サブカルチャー集団、ファンやオタクのコミュニティーなど様々な場所に属しており、それぞれの場所でそこにふさわしい(と思われている)行動や発言をしています。別にどこかにルールが書かれているわけではないのに、無意識に、研究とはこういう場所、アートとはこう、サブカルとはこう、と「空気を読んで」いるわけです。
異種混交的文化において言語の批評的機能を再生させる第一歩は、そうした場所固有の暗黙のルールに従わないこと、場違いとなること、空気を読まないことではないだろうか?とぼくは考えています。もちろん、そうした態度がそのまま批評そのものであるとは思いませんが、批評が可能になるための必要条件だと思うのです。そんなことをしたら、私たちはそれぞれ固有の場所における落ち着いた("in place")ポジションを危うくしてしまうのではないか、と思う人がいるかもしれません。ぼくは、まさにそうしたことが必要だと考えているのです。批評的発話とは、その場所にいながら、別な場所のことを考える行為だと思うからです。誰もが逸脱的でノマド的な生き方をすべきだと言っているのではありません。特定の場所に属しつつも、完全には属していないようなアイデンティティを持ち、そのことを率直に言語化できる方がいいと言っているのです。
こうしたことは究極的には、私たちはそもそも誰のために話し、書いているのかという問題に収斂してくると思います。新自由主義的な社会の中では、たとえ文化や芸術に関することであっても、私たちが話し、書くのは自己利益のためだと理解せざるをえません。つまり作品について、あるいは文化や世界一般について、鋭い洞察を示したり、新情報をいち早くキャッチしたり、膨大な知識で読者を圧倒したり、ちょっと気の利いたことを言って聴衆をうならせたりするのは、語り手、書き手としての自分の地位を高め、本を売り、歴史に名前を残すことに結びつくから意味があるのです。正直ぼく自身も、ある時期までは、文化的活動といっても結局そういうことに帰着するしかないのだと思ってきました。
けれども、とりわけこのメディア芸術コンベンションの第1回が行われた直後に経験した2011年3月11日以降は、文化的発話についてのそうした新自由主義的理解にはもはや何の未来もないこと、それこそニーチェの言った「ニヒリズム」にほかならないことを、頭ではなくハッキリと身体的に自覚するようになりました。私たちが語るのはこの場所ではない他の場所に向かってなのであり、批評的発話とはそもそも他者に向けられているのである。その他者とは、今生きている他の人々だけではなく、死者たちでもあり、まだ生まれていない人々でもあり、また人間を超えた何らかの聞き手でもありうると思います。ぼくは利他主義的な理想論を言っているのではありません。このように考える理由は、このように考えないかぎり、私たち自身も生き残れないと思うからです。私たちの言語に批評性を回復することは、自己保存への努力と不可分です。批評性は言語活動の本質に根ざした性質であり、したがって批評の再生というのは、死にかかっている何かに保護や治療を与えて蘇生させるというようなことではなくて、言語をその本来の活動的な状態に戻すということにほかならないのです。