もう去年のことになってしまったが、12月25日から28日までの4日間、横浜国立大学の室井尚さんがオーガナイズしている「横浜都市創造ラボ」のプログラムとして、「実存主義のアクチュアリティ」という集中講義を行った。これは横浜国立大学の授業でもあるのだが、一般公開もされており、遠方からはるばる聴講に来てくれた多くの方々に、心から感謝したい。
なんで今「実存主義」なんですか?という質問を、事前にも何人かの学生たちから受けた。実存主義が「アクチュアル」であるとはどういうことか?、と。まじめに哲学史の講義を期待していた人たちには本当にもうしわけないが、実は哲学史・思想史上の実存主義なんて、ぼくはどうでもよかったのである。
実存主義は、とりわけジャンポール・サルトルの名前と結びついており、ようするにあのジャンポールが、自分の立場を西欧近代哲学の中で位置づけるために、キルケゴール、ニーチェ、ハイデガーを自分の仲間に入れたくて、そのために発明したジャーゴンにほかならないのだった。その言葉を、ハイデガーは拒否した。キルケゴール、ニーチェは、死人に口なしで何も言えないが、ぼくが代弁するなら、彼らは両者とも「実存主義」などというレッテルは拒否していたことだろう。
それでも、ぼくはある意味でサルトルを支持したいと思った。それで今回の集中講義を考えたのである。ぼくはサルトルを尊敬している。でもそれは、思想内容を尊敬しているというのとはちょっと違う。小説はともかく、哲学的な主著と目される『存在と無』は、なかなかすっきり読み通すこともできない矛盾に満ちたテキストで、ぼくにとっては困った書物なのである。支持するとは言ったが、ぼくはジャンポールの哲学に魅了されたことは一度もない。
ぼくがサルトルを尊敬するのは、そうした著作を通してというより、たとえば、ノーベル文学賞を辞退した唯一の人だからである。なかなか出来ることではない。これほど大きな賞となると、自分はそんなもん要らないと思っても、周囲の人々への配慮とか、国家からの圧力もあるからだ。サルトルの辞退の理由は発言を通じていろいろと詮索されているが、「ノーベル賞みたいな大げさなもん、なんかヤだ」というのが本当ではなかったのだろうか、とぼくは個人的に思っている。
それで、なぜかくも時代錯誤的な「実存主義」講義をやろうと思ったかというと、いま私たちを取りまいている世界全体に浸透している、ある支配的な論理を自覚し、それに抵抗するためだったのである。しかも個人的な啓蒙・覚醒としてではなく、ある集団的な抵抗として。そうした集団的抵抗を組織し束ねる言葉として、とりあえず「実存主義」と言ってみたかったのだ。
さて「ある支配的な傾向」とは、講義の中でもしばしば言及したが、まずは「手続き的合理性」とも呼ぶべき前提である。今日では、民主主義も「思想」ではなく一連の合理的な「手続き」として理解されている。そして、そうした「合理的手続き」としての議論を重ねた末にとられる政策は、思想に裏付けられた決断という形をとらず、むしろ「環境制御」という形をとる。
環境制御というのは、社会的に容認しがたい行為や活動に対して、議論や説得という労力を費やす代わりに、「自然に」そうした行為や活動が不可能な環境を、テクノロジー的・制度的に実現するという政策である。つまり、コンビニ前にたむろする若者を無意識的・生理的に排除する「モスキート音響」や、痴漢行為を最初から実現不可能にする鉄道の「女性専用車両」みたいなものがそれである。
ぼくは、そういうものがそれ自体として「悪い」とはまったく思わない。でも、そういうものの先に未来があるとは、どうしても思えないのである。それで「実存主義」について語ることを思いついた。実存主義は、手続き的合理性という自明の前提に抵抗するための、思想的組織化を可能にすると思えたからである。これが、今回の集中講義のきっかけであった。とりあえず、そのことはここに明記しておく。