「学問のキビシさ」などといったものはない、とぼくは思っている。あるのはただ、この世界の謎であり、それをいくらかでも解きほぐすことの、気の遠くなるような困難さである。ぼくは広い意味での哲学者のはしくれなので、この世界がどのようにあるかという謎だけではなく、この世界がそもそもなぜあるのかという存在論的な謎(何も無かった方がよっぽど単純ですっきりしていたのに、なぜ?)にも直面している。これは、およそ世界に関わる謎のなかでも最難関の問いなのである。
けれど、そんなふうに考えるのは、学者・研究者と言われる人々の中でもかなりマイナーな部類であることを、ぼくは自分が研究者になってみてはじめて実感した。多くの研究者たちは、もっぱら研究生活の困難さ、学問の厳しさといった事柄を配慮している。そして自分がどれだけ古典に通じているか、語学に堪能か、最新情報をキャッチしているか、といったことを競い合って、そうした諸能力において自分がこんなに努力してもかなわない先生や同僚を見上げては「学問はキビシい」などと溜め息をつき、また故何々先生はこんなにも高潔なお人柄であった(あるいは逆に、人格は最低だったが学問はすごかった。所詮おんなじ事だが)などと話し合う。
そういうのは正直ほんと、どうでもいいとぼくは思う。なぜならそれらはたかだか研究者たちの属する共同体内部のファミリービジネスであって、彼らがその研究活動を通じて本当は対面しているはずの世界そのものの謎を解くこととは、ほとんど何の関係もないからである。そうした、中世の修道会のような共同体が今もあることを別段悪いとは思わないし、決してバカにしているわけでもないけれど、ぼくの中心的関心とは端的に無縁であることだけは確かである。
たしかに、異なった国の異なった時代に異なった言語で書かれたテキストをある程度読みこなすことは、それだけでもなかなか大変な修練である。だがそうした能力を獲得することの困難は、そのテキストが対面している世界の謎を解くことの困難とは、本来別次元である。人文学の研究者はしばしば、自分が研究対象としているテキストを適切に読むことの難しさを、そのテキストが扱っている問題そのものの難しさと混同してしまう。ハイデガーを読むことはハイデガーが直面していた問題を考えることとは異なる。にもかかわらず私たちは、重要な問題を語っているテキストを自分はひたすら読んでいるだけなのに、あたかもそれによって自分自身がその重要な問題を直接考えているかのように、錯覚するのである。
もうひとつ、「学問の厳しさ」について先生たちが学生に語りたがるよくない動機の根底には、自分自身が歯を食いしばって苦労してきたから、後から来る者たちにもそれを味わわせたい、というのがある。こういうウラミの発散は本当にセコいものであり、まともに取りあげる気にもならない。新入生の時にシゴかれた体育会系部員が、先輩になると同じシゴきを後輩にするみたいなことだ。そもそも研究のような楽しいことを、歯を食いしばって無理してやってきた自分が悪いのであって、そんなことは学問それ自体には何の関係もないのである。
大学院生や駆け出しの若い研究者たちは、先輩や教授たちを見て「すごい、何でも知ってる」などと思うかも知れない。でも実はそんなの、たいしたことではないのである。特定の専門分野という「業界」に10年、20年といれば、イヤでもいろんな情報が耳から入ってくるし、この道をしばらく行くとこういう場所に出る、みたいな地理的感覚もある程度できてくる。そういうことを身につけているのは別に卓越した能力の結果ではなく、まあ言えばたんに「年取ってる」という事を示しているだけなのだ。
だからぼくが注意を喚起したいのは、年とっていようが若かろうが、学会の重鎮であろうが駆け出しのペーペーであろうが、そんなことには何の関わりもなく、この世界が容赦なく私たちに突きつけてくる「謎」の、恐るべき困難さについてである。僕が大学の講義で語っている内容は、言ってみればたんにその困難さをいろんな仕方で変奏しているだけにすぎない。その謎の本性を、学問研究であれ芸術創作であれ、適切にかつ鋭く表現しうる者に幸いあれ。それを前にしては、いわゆる「学問のキビシさ」などというケチで田舎臭い共同体的恫喝は、粉々に吹き飛んでしまうからである。