このシリーズ「クールジャパンと炭坑節」は、なんか毎日やる夏休みの宿題ノートみたいになってしまったが、最後に炭坑節のことを書いておしまいにしたい。今回はもはやクールジャパンとはほとんど関係ないです。すみません。
水戸のトークで、炭坑節について話そうと思ったきっかけは、坂本九の「九ちゃんの炭坑節」という歌を思い出したことであった。
ぼくが小学生の頃(1960年代後半)は、坂本九の歌はもちろんリアルタイムで誰もが知っており、フォークダンスで「レットキス(ジェンカ)」をかけたりするのが流行っていた。でも実はこの曲、小学生のぼくは恥ずかしくて大嫌いだったのである。
原曲はフィンランド語の流行歌で「列になって踊ろう」という意味らしい。踊り方も指定されていた。だが永六輔が作った日本語の歌詞はこのタイトルを(天才的にも)「レッツ・キッス」と解釈・翻案し、歌詞の内容は「キスはいやらしいものではないよ、戦争を知らない子供たちの自然な愛情表現なのだ」みたいなことになっている。
レッツ・キッス 若者よ
レッツ・キッス 恋人よ
レッツ・キッス 愛するしるしだ
くちずけに乾杯
このメッセージがなんとも、子供のぼくはにたえられなかった。それで坂本九はずっと何となくキライだなと思っていたのだが、ある時、昔の曲を聴いて見直し、好きになったのである。そのきっかけが、「九ちゃんの炭坑節」であった。これは、炭坑節をサンバ風にアレンジしたものである。これで踊れるかどうかは別として、聴いてみるとなかなかいいのである。
わたしのサマちゃん、トロを押す (ア、ヨイヨイ)
わたしゃ 選炭場で ボタを選る
六時下がりの サマちゃんが
ケイジにもたれて 思案顔 (サノ、ヨイヨイ)
「サマちゃん」というのは女性が男の恋人を呼ぶ言葉である。恋人たちは2人とも炭坑勤務で、男はトロッコを押し、女は選炭場でボタ(使い物にならないクズ岩)を選別する仕事をしている。「ケイジ」というのは鉄骨のフレームだけで出来たエレベータで、これに乗って何百メートルも下の坑道に降りるのだ。
石炭の採掘とそれにまつわる生活は、産業革命以来の普遍的な主題である。そうした歴史の中で、たまたま日本の福岡県田川市で一種の俗謡・労働歌として発達し歌謡曲へとアレンジされた「炭坑節」を、あの坂本九がサンバとして歌っているというのが、今から思うと、とても「ワールドミュージック」だなと思ったのである。でもこの歌は流行らなかった。1963年に三井三池炭坑で起こった史上最大の炭塵爆発事故(死者458人)による自粛も影響したらしい。
それで炭坑節に興味を持ち調べていくと、それが歌謡曲として全国に普及する以前には、その前身として「ゴットン節」あるいは「チョンコ節」と呼ばれる俗謡・春歌が歌われていたことが分かった。「チョンコ節」と聞くと、ぼくは故・桂枝雀さんが演じていた「八五郎坊主」という噺を思い出さずにはおれない。そもそも「チョンコ節」というものにはじめて出会ったのが、この落語を通してだからである。「チョンコ節」の代表的な歌詞には、たとえば次のようなものがある。
親が チョンコして
わし こしらえて
わしが チョンコすりゃ 意見する
チョンコ チョンコ
いわゆる春歌である。「チョンコ」というのは女性器を意味すると同時に性交を意味する隠語で、お上品な人たちは眉をひそめるような歌なのだが、桂枝雀さんは落語「八五郎坊主」の中で、この噺自体を新しい解釈で刷新させるとともに、「チョンコ節」に思いがけない生気を吹き込んだ。
「八五郎坊主」というのは、自分自身のことをほとんど生きる価値もない(親もない、妻も子もない、仕事もない、その境遇をどうにかしようという智慧もない)と思っている男が、「つまらん奴は坊主になれ」という言いぐさがあるというので、思いきって坊主になるという話である。剃髪され、慣れない袈裟を着て表に出ると、秋晴れの空に涼しい風が吹いてきて何だかうれしくなり、思わず大声で次のような「チョンコ節」を歌い出すのだ。
え〜 坊主 抱いて寝りゃ
かわゆて ならぬ
どこが 尻やら 頭やら
チョンコ チョンコ
大学院生の頃、この話をはじめて聴いたとき、ぼくはほとんど人生観が変わってしまうほどの衝撃を受けた。とりわけこの「チョンコ節」の箇所を聴いたときは、「つまらん奴」だった八五郎が坊主になって突然新しい生を獲得したように、自分自身が生まれ直したように感じたのである。もともとは艶笑的な内容である「どこが尻やら頭やら」は、桂枝雀さんの手にかかると「尻も頭も結局同じである」という禅的・哲学的な(しかし考えてみるとどういう意味なのかワケのわからない)命題へと変容させられてしまう。これはぼくにとって、坂本九による「炭坑節」の解釈に次ぐ事件だった。
まあ、このあたりがだいたい「炭坑節」について考えいてることのスケッチなのである。水戸でも話の後半はそうしたことを話し、「九ちゃんの炭坑節」も枝雀さんの「八五郎坊主」の一部も聴いてもらった。だが、炭坑節もチョンコ節も奥が深すぎて、本当はまだまだ真剣な考察を要する。