孤独と連帯とは、正反対のものだと考える人がいるかもしれない。
だが、ぼくはむしろ、孤独と連帯とは、共に成長してゆくものだと理解している。
その意味で、古い封建的な共同社会は、連帯とは、ほど遠いものである。なぜならそれは、人々に孤独になることを禁じていたからだ。孤独は、連帯の条件なのである。だから古い共同社会の中では、人々はその内面においては、実はバラバラに切り離されている。
前の記事で、原発が可能にした「快適な暮らし」とは、人々が連帯せずに、バラバラにでも生きてける、便利でクリーンな生活のことだと言った。そしてそれは、古い世代が、集合的無意識のレベルにおいて、古い共同社会の鬱陶しさを嫌悪した結果、産み出されたものだと述べた。
だが、その結果産み出されたポストモダンな「快適な暮らし」とは、見かけほど、封建的な共同社会と異なってはいない。むしろ、それら両者は実は本質的には、同じものかもしれないとも思える。孤独を十分に鍛えることなく、従って連帯を育てることもないという点において、同根なのだ。
ぼくは、ワンルームマンションや、コンビニエンスストアや、漫画喫茶や、そうした現代的環境すべてがいけない、昔に戻った方がいい等と考えているわけではまったくない。むしろ、そうした環境から出発しなければ、何も始まらないと思っているのである。
孤独と連帯とは共に成長してゆく。その成長にきっかけを与えることが重要であり、3・11以後の危機と「脱原発」が、そのきっかけになるならいいと考えている。
この国の首相は、原発の停止によって関西圏で最大15%の電力供給が脅かされることを深刻に語っているが、そんなものに惑わされてはいけない。「快適な暮らし」を失うことが問題なのではなく、未来を失うことが問題だからだ。
そして未来は、孤独と連帯とを共に発展させてゆくプロセスの向こうにしか、存在しないのである。