以下の文章は、2011年4月23日に横浜で行われた第1回美学会シンポジウム「美学V.S.現代アート」での講演のために用意したメモです。何人かの人から見せてほしいと言われたのでここに掲載しておきます。
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このシンポジウムはたいへん参加希望者が多くて、発表後すぐに予約がいっぱいになってしまったと聞きました。もちろんそれは第一には、ゲストの村上隆さんの活動への関心の高さを表すものであることは明らかだと思います。ただ、もしそれだけではないとすれば、このシンポジウムのタイトル「美学vs.現代アート」が示しているような、ある種の「対峙」や「対決」に対する期待ではないかと考えます。そうした対決が、本当に「美学」と「現代アート」の間に起こりうるのかどうかはともかく、ふだん出会うことがないような異質なもの同士の衝突、といったものが興味をかきたてるのだと思います。というのも、私たちがいま生きている世界は、少なくともこの数十年間、そうした衝突を避けるように作られてきたからです。
「vs.」つまり「versus」というのは本来、法廷やスポーツの試合における対立を示す言葉です。大事件が裁かれる法廷を傍聴したり、国を代表するサッカーのチームが対決する試合を観戦したりすることは、人間にとって普遍的な関心事だと思います。私たちは対立するものが「ガチでぶつかり合う」のを観るのが好きなのです。この関心は、たんなる好奇心とかナショナリズムでは説明しきれないものだと思います。では、そうした関心の根底には何があるのでしょうか? そうした関心が向かっているのは、たしかにそこで繰り広げられる「闘い(agon)」に対してです。けれども、本当は闘いそれ自体を観ることが目的なのではなくて、その闘いを通して「運命(alea)」を経験することにあるのだと思います。「アレア」とはサイコロのゲームのことです。では「アレア」としての「運命」の経験とはどういうことでしょうか? それは、私たちの生が本来「偶然的」なものだという経験だと思います。つまり人生はどんなに計画しようと、本来安定したものではありえず、ギャンブルのように運(チャンス)に左右され、リスクを伴うものだという経験です。文明化した環境に生きる人間は、国家や法律によって、そして現代ではとりわけ高度に発達した科学技術によって、自分の生は安全に護られているもの(あるいは護られるべきもの)として想定しがちです。けれどもそうした「安全神話」は遅かれ早かれ必ず破られます。「安全神話」というのは、安全でないものを安全だと誤って信じさせられているということではなく、「安全」とはそもそも「神話」なのだという意味です。どんなに文明化しても人間は動物ですから、そうした安心や安全がたんなる幻想であることを、身体は知っています。だから、頭では秩序と予測可能性を求めていても、何らかの仕方で「運命」を経験することを強く要求しているのです。
さてこの「美学vs.現代アート」という対決において、わたしは「美学」を代表するものとしてここに召喚されているということは明らかです。つまり、現代美術の世界で村上隆さんが行ってきた、きわめて精力的かつセンセーショナルな活動を前にして、「美学者」はいったい何を言うのかという期待の下にここに呼び出されているのだと思います。ここに出てきた以上、わたしはそれに答えたいと思います。けれどもそのためには、「美学」とはそもそも何なのか、つまりこの日本において、そして2011年という現在においていったい何なのかという所から出発すべきだと思います。なぜなら「現代アート」の方も、別に何か既存の文化領域として存在しているわけではないし、それを村上隆さんが代表しているわけでもなくて、むしろ彼はその活動をつうじて「現代アート」というものに大きな疑問符を突きつけていることが重要だと思うからです。「美学」もまた、たしかに「美学会」のような制度はあるけれども、本質的な意味で美学とは何かということは少しも自明ではないと考えています。言い換えれば、「美学者の立場からみるとこうだ」というようなことを、気楽に、説明なしには言えないということです。そして説明するとすれば、それは根本的な説明にならざるをえないと思います。
そのためにわたしは、いま私たちが置かれている状況から話をはじめたいと思います。それは、もし一言で表現するとすれば、"EXPOSURE"という状況だと思います。つまり「曝されている」ということです。つまり今回の大地震のような経験は、日常的意識を覆っていた想像上の保護膜、つまりこの世界は高度な文明やテクノロジーによって護られているという幻想を破壊することによって、私たちを地質学的な時間・空間に直面させます。そのことが美学と何の関係があるのでしょうか? 「美学(aesthetica)」という言葉がひとつの探究領域として自覚され始めたのは18世紀の半ば、啓蒙期のヨーロッパにおいてです。バウムガルテンの『美学』が出版されたのは1750年代です。さて、この1750年代というのは、思想史と自然史とが大きく交差した時でもありました。それは、1755年11月1日に西ヨーロッパを襲った大地震です。いろいろな記録から、震源はポルトガル南西沖の海底であり、マグニチュードは8.7と推定されています。もっとも壊滅的な被害を受けた都市はリスボンなので「1755年リスボン大地震」と呼ばれます。地震とその直後に襲った大津波、火災によってリスボンだけでも最低1万人、多ければ10万人が亡くなったと推定されています。
この大災害はヨーロッパ近代思想史を理解する上でも決定的に重要なものです。もっとも有名な例としては、ヴォルテールの『カンディード、あるいはオプティミズム』(Candide, ou l'Optimisme, 1759)があげられます。ヴォルテールはリスボン大地震に衝撃を受け、「オプティミズム」の思想を批判するためにこの物語を書きました。ここで「オプティミズム」と言われているのは、私たちが普通「楽天主義」として理解しているものとは少し違います。オプティミズムとは、ライプニッツ(Gottfried Wilhelm von Leipniz,1646-1716)の名前と結びつけられているひとつの形而上学的な世界記述のことであって、それは私たちが生きているこの世界が、可能な複数の世界の中から神によって選択された最善の世界であると主張するものです。このお話の中で、主人公のカンディードは家庭教師によってそうしたオプティミズムの世界観を教え込まれます。その後、かれは人生においてざまざま不運や災いに遭遇する中で、最初のうちは、それらが死すべき人間の眼にいかに絶望的に見えようとも、神は最善の世界を創ったのだと信じています。ところがリスボンでは大地震に巻き込まれ、その後も数々の悲惨事に出会ったあげく、カンディードはついにオプティミズムを捨て去ります。物語の最後では、カンディードはわずかな土地を手に入れ、慎ましい労働生活に喜びを見いだすようになるのですが、それでもかつての家庭教師パンゲロスは、このささやかな幸福もこれまでの苦難があってのことだから、やはり神の設計した世界は最善であったことを認めよと言う。しかしカンディードは議論には応じず、「それはごもっとも。でも私たちの畑を耕さなければ。」と答えてこの物語は終わります。
キリスト教的な「神」という要因のために、現代の私たちにとっては疎遠な西洋思想史上のエピソードにみえるかもしれませんが、この「神」を「合理主義」や「科学技術」に置き換えれば、それはほとんど現代において支配的な考え方とほとんど同じだと思います。つまり私たちは、経済活動が合理化されテクノロジーが進歩すれば世界はしだいに善い状態に向かって進んでゆくと信じるように、促されているのです。こうした素朴な進歩主義は、まさに現代版の「オプティミズム」だと思います。まさに形而上学的な思考というのはそういうものだと思います。ところで18世紀の後半において、こうした形而上学的思考から離脱しようと苦心したもうひとりの思想家がイマヌエル・カントです。カントもまた、1755年のリスボン大地震に大きな衝撃を受け、人間の力をはるかに越えた自然力の猛威に直面するという経験から哲学的思考をスタートさせました。地震や津波が与える衝撃的知覚の記憶は、カント美学における「崇高」概念の中に読み取ることができます。
まさにこうした状況が、西欧近代美学が生まれた状況なのです。近代美学が1755年のリスボン大地震から生じたというのはもちろん言い過ぎですが、美学的な意識化の出発点に、人間的尺度をはるかに凌駕する自然力に曝されるという経験、それによって形而上学的思考が打ち砕かれるという"EXPOSURE"の経験があったことはたしかだと思います。
さて、現在の私たちにとっての"EXPOSURE"にもどってみましょう。私たちが曝されているのは、地震と津波という地球的な自然力の脅威だけではありません。原子力発電所の事故によって、私たちは増加した放射線に曝されています。放射線のことを何か自然に反した邪悪なものであるかのように想像する人もいますが、それは間違っています。放射線は私たちの生きているこの宇宙におけるまったく普通のな自然現象であって、むしろ私たちが好んで「自然」と呼んでいるもの――空や海、風や大地といった、地球に特有なもの――の方が、宇宙のなかではきわめて特殊化された環境にほかなりません。カントがその『実践理性批判』の最後を結び、墓碑にも刻まれている有名な一文「繰り返し、じっと反省すればするほど常に新たにそして高まりくる感嘆と崇敬の念をもって心を満たすものが2つある。我が上なる星空と、我が内なる道徳法則とである。」夜空の星が輝いているのは、私たちが作り出しうるどんな原子力装置よりも比較にならないほど大規模な核融合反応によるものです。太陽もそのひとつであり、私たちを含め地球上の生物はすべて、核融合によって生きているのです。原子力というのは、地球上の特殊な「自然」環境の中に、宇宙のより一般的な姿が一時的に、ほんの少しだけ出現したようなものだと思います。