これは数年前に書いたテキストですが、今朝書いた「ジルは誰を誘惑しているのか?」を読んだ何人かの人から、掲載すべきだと言われたのでここにも載せておきます。
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「BL(ボーイズラブ)」と総称される小説やマンガが、ここ約十年くらいの間、女性読者向け書籍売場においてめざましい快進撃を続けてきた。今やちょっと大きな書店に行くと、長い書架の二面あるいはそれ以上がすべてこのジャンルの読み物で満たされており、すこぶる壮観である。
BLというのは、様々なシチュエーションで演じられる「男性」どうしの「恋愛」の物語である。「男性」と括弧に入れたのは、物語に登場する男性たちがけっして現実の男性を描写したものではなく、むしろ女性読者のファンタジーに訴えるような、かなり特別な人物像として描かれているからである。したがって男性同士の「恋愛」といっても、それは現実のホモセクシュアリズムを描き出したものではけっしてない。
さらに、「恋愛」という語も括弧に入れた理由は、それがいわゆる従来の恋愛小説とは似て非なるものだからだ。BLが描くのは「純愛」である。つまり〈わたしはこの人と結ばれるためにこの世に生まれて来た〉と思えるような、ただひとりの相手に巡り会うという物語である。だがそこには同時に露骨な性描写があり、結ばれる2人のどちらがどんなタイプの「攻め」(つまり男性器を相手の肛門に挿入する役)で、どちらがどんなタイプの「受け」(男性器を挿入される役)であるかということをめぐる、さまざまな駆け引きや自己発見があり、その組み合わせの妙が物語の面白さを決定している。昔の純愛物語とは違って、BLにおいて純愛は性行為と背反しないどころか、二つの要因は互いに不可欠なものとして一体化している。さらに言えば、そこで演じられるセックスは男性向けポルノグラフィーやかつてのレディースコミックのように即物的でも描写的でもない。BLにおける性行為とは、肉体的な結合というよりもむしろ、記号の組み合わせのような何かなのである。
こうした本が大量に売られているということは、当然それだけの読者がいるということを意味する。「BL」に耽溺する女性読者は「腐女子(ふじょし)」と呼ばれる。この名称はかならずしも外から勝手に貼られたラベルであるというわけでもなく、すすんで「腐女子」を自称したり「わたしも最近かなり〈腐〉が進んできて…」などと自嘲的に語る女性もいる。(だが反面この名を好まず、自分のそうした嗜好をあまり知られたくはない、メディアや研究の対象になんかしないで放っといてほしいと感じている子たちもいる。)またもちろん、BLなどまったく興味がなく、気持ちが悪いと表明する女性もいる。だが、男性同士の純愛(でありかつ性愛)の物語を好んで読むということが、けっして一部の限られたグループのマニアックな嗜好でないことは、売れている書籍の量からみてあきらかである。嫌悪感を抱く女性もたしかに中にはいるが、多くの女性はこうしたファンタジーに多かれ少なかれ共感を持っている、少なくとも反感は持っていないように思える。すすんで「腐女子」を自称するほどではないにしても、そうしたものが読まれる理由は理解できると、大半の女性たちは感じているのではないだろうか、とわたしは思う。
このような現象がいったい何を意味するのかを考えるべく、先頃わたしの勤務する京都大学文学部で開催された第28回日本記号学会大会「遍在するフィクショナリティー」の第1日目では、ゲストに『やおい小説論』の著者でBL研究者である永久保陽子さんと、閉塞した現代の精神状況を魅力的な語り口で分析した好著『絶望論』の著者である清田友則さんをゲストに迎えて、討議が行われた。タイトルは「すべての女子は〈腐〉を目指す」という、やや極端なものであった。わたしは開催校に勤務する会員として実行委員長をつとめたが、今回の学会の企画全体は京都精華大学その他で文学理論を教える河田学さんのリードによって実現したものである。準備の過程で、第1日目のシンポジウムの表題がなかなか決まらなかったので、上記のタイトルは実はわたしが提案したものだ。だからそれについてはわたしの責任である。すべての女子が必ずしも〈腐〉を「目指し」てなんかいないことは知っているけれど、何かちょっと挑発的な言い方がほしかったのだ。というより、もしもすべての女子が〈腐〉に向かっているとすれば、その〈腐〉とはいったい何であるのか、それが知りたかったのかもしれない。非常勤で教えているIAMAS(情報科学芸術大学院大学)のわたしの授業に出ている学生で、少女マンガを描く長谷川直子さんに大会のチラシとマンガの執筆を依頼した。その効果もあって、シンポジウム当日は例年になく多くの参加者が訪れた。
さて実際の討議は、学会という場所でこうした話題を議論することに対する考え方の相違から、必ずしもかみ合った議論にはならず、後半フロアからの質問に入るとかなり荒れ模様の展開にもなったが、お二人のゲストの話そのものは、わたしにとって興味深い部分がいくつかあった。わたしは最前列で録音係もしながらそれを面白く聴いていたのだが、ふだんは読まないような作品をこの数週間読んできて、BLがたんに現代の一文化現象としてではなく、ひとりの読者としての自分自身にとってはいったい何なのだろうかと考えていた。もちろん、わたしは50代の男なので「腐女子」にはどうあがいても(笑)なれない。BLが好きになったとかそれに「はまった」などということもまったくない。だが、いくつかの作品はたしかに退屈だと感じたものの、そうした物語に対する嫌悪感は(ときおり登場するやや暴力的な性行為の描写をのぞいては)あまりなく、また自分にはこんなものとうてい理解できないという疎外感も持たなかった。とはいえBLと腐女子について何かを言うとき、どんな概念を手かがりにして語ることができるか、すぐには思い浮かばなかった。たしかに「ジェンダー」や「セクシュアリティ」はひとつの手かがりとはなりうるであろう。永久保さんの著書にある「BLとはジェンダーの娯楽化である」という見方は、藤本由香里さんに絶賛され、シンポジウムの中で清田さんも引用していたが、わたし自身の実感を言い当てるものではなかった。
記号学会のシンポジウムを聴きながらわたしがずっと考えていたのは、実は「幸福」についてである。
BLの描く男性間の恋愛のいわば祖型として、七十年代以降の少女マンガに描かれた「少年愛」がよく参照される。中心となるのは萩尾望都、大島弓子、竹宮恵子といったいわゆる「二十四年組」と呼ばれる作家たちである。少女マンガについてそもそも長谷川直子さんと話すようになったのは、2人ともこれらの作家たち、とりわけその中でもかつて大島弓子に耽溺した(今もしている?)経験をもつからである。長谷川さんはこの作家に決定的な影響を受けて少女マンガを描き始めたという。そこで、これらのマンガの中に登場する「少年愛」とはいったい何なのだろうという話をした。それらに登場する「少年」も現実の少年の描写ではなく、ある種のファンタジーを読者の中に惹起する特別な存在として描かれている。そしてやはりBLと同じく、それは女性の読者にとって異性の対象として魅力ある存在というよりも、むしろ自己自身をそこに仮託し、自分の代わりに物語の世界を生きてくれるアバターとして機能する。なぜ「少女」ではいけないのか? 少女は現実世界ではやがて「女」として生きねばならず、そのことを事ある毎に想起させられる。成長するにしたがってますます「女」という縛りから逃れがたくなる。少なくとも空想の中では「女」以外のものになりたい。けれどもその「女以外のもの」とは「男」を意味しない。(男性になりたい女性もたしかに存在するが、それはまたまったく別種の願望である。)では、どんな存在になることで「女」であることから解放されるだろうか? それに最も近いのが「少年」なのである。しかしもちろんそれは、現実の少年そのものではなく、ある理想化された存在、つまり「少女」から「やがて女になる宿命」を免除した存在としての「少年」である。その意味で少年愛マンガの中の「少年」とは、より幸福な「少女」、あるいはより完全になった「少女」と言えるかもしれない。
少女マンガが好きではない人は、そのほとんどが現実にはありそうもない純愛をテーマにしていて、どの作品も同じようにみえると言うかもしれない。だからそうした物語に感情移入できないかぎり、どれも似たり寄ったりで退屈に感じられる、と。BLに対する否定的な感想もだいたいそのようなものだろう。けれどもそれはたとえば、演歌なんて歌詞もメロディもだいたいどれも似たように聞こえる、と言っているのと同じことだとわたしには思える。演歌が「音楽」という同じジャンルに属するからといって、それを他の歌曲と単純に比較することは適切だろうか? 演歌は、歌詞や旋律の多様な表現を通じて何か複雑な知的内容を伝達するような音楽形式ではそもそもない。演歌が伝えるのは、かなわぬ恋や別れの辛さ、未練といった情緒ですらない。むしろ、それらを通じてひたすら「この世は無常である」と訴えているのであり、その訴えの切実さこそが演歌の質を決めているのだと思う。同様に、少女マンガやBLの本質をその主題やストーリーその他の実質的要素から探ろうとするのは、根本的に無理なのではないか。それらが他の物語ジャンルに比べてパターン化されていると批難したり、あるいは逆にそれに対して、いやそのパターンの中に微妙で豊かな差異が存在するのだなどと反論したりするのは、不毛なことではないのだろうか。少女マンガもBLも、そこに描かれている恋愛やセックスは本質的に重要なものではないと思うのである。演歌の根源的メッセージが「生は無常である」という諦観であるように、少女マンガとBLを通底する究極のメッセージは「幸福とは何か?」というただひとつの問いかけではないのだろうか?
現実の世界においては「幸福」とは何か意味のあること、つまり勝利や自己実現、何らかの目標の達成によってもたらされる状態だと思われている。とりわけ男性社会においては、幸福とはライバルに勝つこと、仕事に成功すること、誰もが狙う女を我がものにすること、周囲から尊敬されること、といった「プラス」の状況でしかありえない。(もっともまだ社会に参入しない小児や、社会からリタイアした老人にとっては事情は違う。)わたしが少女マンガに傾倒したのは、そこではまったく別な種類の幸せがつねに求められていると感じたからである。それは、「何でもないことの幸せ」とでも言うしかない、幸福のあり方である。時代を問わず、少女たちは何でもないことによく笑う。「箸がころんでも可笑しい」のは、彼女たちがまだ若く、無限にも思える人生の時間を持っていながら、まだ大人の女性の義務は果たさなくてもいいという、いわゆる猶予期間にある気楽さからではけっしてないと思う。少女たちはそんな猶予期間などすぐに終わってしまうことは知っているのだ。何でもないことがうれしいのは、彼女たちが大人や現実の少年とは、まったく異なった時間を生きているからである。それはいってみれば、あたかもたった今この世に生まれてきたばかりであるかのように、この瞬間を生きるという感覚だ。
何一つ達成したわけでも与えられたわけでもなく、未来に何かいいことが待っているわけでもないのに、今この瞬間に生きることがそのまま、輝くばかりの幸福感に満たされる。日常生活の中ではこうした幸福感についての感覚はふつう鈍っており、それを感じるには、何らかの仕方で日常的な意味の世界から離れる経験が必要である。わたしが知るある若い女性は、摂食障害に悩んである時断食療法の合宿に参加した。約1ヶ月の間、医学的管理のもとに徐々に食事を減らしてゆき、さらにまた少しずつ増やしていくのである。断食中は運動や読書などもなるべくせず、安静にしている必要がある。さて終わりに近づいたある日、もう少しくらいは外を散歩してもよいと許されたので、近くの海岸までの一キロほどの田舎道を、彼女は歩いていった。暖かく静かな春の昼下がりで、ひさしぶりに目にする外の景色を楽しみながら歩いてゆくと、ある農家の庭先で一匹の犬が、さも気持ちよさそうに昼寝をしているのを彼女は見た。そのとたん、何とも言いようのない強烈な幸福感がこみ上げてきて、涙があふれて止まらなくなってしまった、と彼女は言うのである。それはどんな感情かというと、「ああ、世界はこのままでいいんだ」といった感じなのだが、けっして消極的・受動的な気分ではなく、生きようという力が湧いてくる感じだった、と語った。
少女マンガにおける少年たち、あるいはBLにおける女性のような優雅さを持つ男たちは、こうした「何でもないことの幸せ」に到達するために選ばれた媒介者たちではないのだろうか。それが「少年」「男」として描かれることはたしかに重要だが、それは現実世界における性差とはあまり関係がない。また彼らは表面的には、数奇な運命に翻弄されたりいろんな駆け引きや闘争を通じて、最終的にはただ一人の相手と結ばれるという物語を生きているようにみえる。その意味では、理想の恋人の獲得という究極目的の達成こそが幸福をもたらすという、男性社会の価値観を生きているように思える。しかし、ほんとうにそうだろうか? そもそもそこでの最終的な相手とは、いったい誰なのだろうか。永久保陽子さんは、BLの中の男たちは必ずしもどちらが異性愛で言えば男役あるいは女役に当たると単純に分類することはできず、「攻め」「受け」のそれぞれにも幾分かの女性らしさが混じっていると分析する。反面、登場人物がどんなに女性的に見えても、それは女性であってはならず、両者ともに「男」であるということは崩せない、これが崩れるとBLではなくなるのだという。もしもBLに登場する男が本当は女性読者の理想化された自己像であるとしたら、その男と結ばれる相手の男も、実は純愛=性愛的な他者などではなく、本当はもう一人の自己にほかならないのではないだろうか。BLとは「他者」との出会いを描く物語ではなく、もっぱら自己ともう一人の自己との結合だけが展開される。際限なく繰り返される単為生殖。だがそれはけっして欠如的・閉塞的なことではない。なぜならそうした自己自身との不断の結合をとおして、読者はいわば、性の分離以前のアンドロギュノス的段階へと想像的に回帰するからだ。そしてそこが「何でもないことの幸せ」の場所にほかならないのである。
「何でもないことの幸せ」という観点からみてはじめて、BLがいかなる意味で少女マンガの後継者であるかということ、そしてBLにおいてはなぜ純愛とポルノグラフィーが一体化しているのかということも理解できるのではないだろうか。恋愛をめぐる伝統的な物語においては、精神的な愛とセックスとは、ひとまず対極にある。男の空想する純愛においては、もっぱら精神的な愛の対象となるマドンナのような存在がある。それを補償するかのようにポルノグラフィーにおいては逆に、女性の身体が過度に物質化され支配の対象として想像される。それら両極の間に張り渡された空間とそれを維持する力学とが、男にとっての恋愛の可能性の条件である。困難な課題を乗り越え、ついには精神と肉体の一致を実現するということが、男にとっての幸福の原型である。それに対してBLが問いかけているのは、こうした幸福観は根本的に誤っているのではないかということだ。あるいは少なくとも、わたしたちはまったく別の幸福感をもとにしても生きるができるということだ。かつての少女マンガにおいては「セックスなしのベッドイン」というのが究極のファンタジーを構成していた。それに対して現代のBLにおいては露骨なセックスが描写される。だがこの両者は、みかけほど異なっていない。両者を通底する重要なポイントは、精神愛と性愛に違いはない、というまったく単純な真理の表明である。そしてこれに対応するのは、何か意味ある目標の達成がもたらす幸福よりも、「何でもないことの幸せ」こそが人生において本質的なのだ、という信念である。
BLがメディアでとりあげられるときには、ともするとその性的描写ばかりが強調され、これは女性のためのポルノグラフィーであるといった意見が強調されるが、そうした見方や語り方は、男性にとってのポルノグラフィーの意味を過剰に投影しているように思える。わたしにとってBLの本質的テーマはセックスではなく、純愛ですらなく、「何でもないことの幸せ」なのである。つまり「有意義に」生きるのではなく、「ただ生きる」ということがもたらす幸福の感覚に、男性どうしの恋愛という物語を通してアプローチすることであると、わたしは思う。そしてこの感覚は、巨大な出版市場の圧力のもとにある現代のBLよりも、幸福論の系譜においてその祖型といえる昔の少女マンガの中に、よりストレートに表現されていた。大島弓子のマンガ『四月怪談』のエンディングでは、事故で臨死体験をして冥界をさまよったあげく、ぎりぎりのところで生き返った少女が、以前の日常とは違ってまったくたわいのないこと、何でもないことに笑い、幸せを感じるという場面がある。何でもないことがすばらしい、「コップを持ち上げて水を飲んでも、うれしい」と彼女が言うことでこの物語は終わるのである。70年代の少女マンガから現代のBLへと続く(続いているとわたしは思う)流れの中には、「幸福とは何か?」という問いに対して、あたかも今生まれ直したかのように生きること、「何でもないことの幸せ」に触れることはいつでも可能なのだという答えが、飽くことなく反復されているように思われるのである。