明日の午後は、わたしの所属する美学会という学会の主催する「美学V.S.マンガ」というシンポジウムが、京都大学で行われる。
この企画は去年から始まったもので、第一回は「美学V.S.現代アート」。昨年の4月23日に横浜で行われた。この時は美術家の村上隆さんをゲストに迎え、東京大学の西村清和さんとわたしが出演した。(その時に話した原稿「2011:The Great Exposure」を読みたいという人がいたので、このブログにも転載しました。)
さて第2回のシンポジウム「美学V.S.マンガ」には、マンガ家で京都精華大学教授の竹宮恵子さんをゲストとしてお招きする。今回はわたしは観客として参加すればいいので気楽なのだが、よい機会なので竹宮さん最大の問題作とされている『風と木の詩』を、久々に読み返してみた。
19世紀後半のフランスを舞台にした物語だが、そうした時代や文化的背景が特に重要であるわけではない。むしろ重要なのは、これが一種の「学園モノ」であるということだと思った。読者の多くが所属していた(1970〜80年代日本の)学校からは遠く離れた異界なのだが、やはり「学校」であることには変わりがなく、そのことによって読者はこの物語を、最終的には自分自身についてのものとして読むことができる。
もうひとつの重要な点は、読者のほとんどは女性であったにもかかわらず、活躍するのは主として少年たちと大人の男たちであり、女性の登場人物はあまり重要な役割を与えられていないということである。少年を主人公とする少女マンガを読んでいてわたしがいつも考えるのは、「彼ら」は本当はいったい何ものなのか?ということだ。この作品は、とりわけその疑問をもっとも鋭く突きつけてくるのである。
主人公はジルベール・コクトーという、人間離れした美貌を備えた「少年」である。この子が(生物学上の)父親によって幼い頃より性愛の訓練(今の言葉で言えばつまり「性的虐待」)を受けた後、学校に入れられてもろくに勉強もせず、教師や上級生を相手にある種の「売春」を続けたりする自堕落な生活を送りながらも、孤独と誰にも従わない高貴さを失うことがない。それを、もうひとりの主人公であるセルジュという少年が救おうとするのだが、ジルベールは最後には阿片中毒となって、馬車にはねられ事故死する。
まあ物語としては特になんということもない話で、「少年愛」であるとか「背徳的」とか「耽美的」とかいう言葉でいくらでも愛でることはできるのであるが、それだけのことなら、この物語はわざわざ「少女マンガ」という形式をとる必要はなかっただろう。わたしの考えでは、この作品はそれが「少女マンガ」であることがもっとも重要であり、いわば「少女マンガ」という形式に潜むひとつの可能性を極限まで追求したところに、その最大の意味があるのである。
このことを強調するためにあえて言うなら、これは「少年愛」の物語などではない。設定上「少年」とされている主人公たちは、視覚的には少女のようでもあり、性の未分化な妖精的存在にも思えるのである。そうした存在が物語の中では「男性」と設定されていることが重要なのであり、そのことによって「少年」たちはいわば読者の「アバター」として機能するようになるのだ。このメカニズムが、読者の性愛についての想像力を解放するのである。つまりこの設定によって、女性という社会的役割に付随する様々な不純物を振り捨てることができ、性愛のファンタジーをその純粋なエネルギーにおいて駆動させることができるのである。
言葉や物語上では「男性」としておきながら、視覚的イメージはあからさまにそれを裏切ることができるというのが、「(少女)マンガ」という形式のもつ最大の可能性のひとつである。この一見矛盾した設定によって、読者は小説や映画とは異なった仕方で、主人公と同一化することができるのである。
『風と木の詩』を20年ぶりくらいに読み返してみて、もっとも強く感じたのは上のようなことであった。そしていまだに、学生の頃この作品を雑誌ではじめて読んだ頃と同じような胸のざわつきを感知できたのは驚くべきことであった。そのざわつきとは、ある尋常ならざる「誘惑」のせいである。物語の中ではジルベールは周囲の少年や大人たちを誘惑していることになっているが、この作品でもっとも強く印象に残るのは、ジルベールはそのもっとも美しい顔や肢体を他の登場人物に対してではなく、こちらの方に向けているということである。彼が本当に誘惑している対象、「ぼくとひとつになって!」とくりかえし懇願している相手とは、読者自身にほかならないのだ。