今日の午後は大谷大学に鷲田清一さんを訪ねる。
鷲田さんに会うのはずいぶん久しぶりである。本日の用件は、5月12、13日に神戸ファッション美術館で行われる日本記号学会大会に関する打合せ。大会テーマは「着る、纏う、装う/脱ぐ」で、2日目の13日(日曜日)の最後のセッションで、鷲田さんとぼくが対談することになっている。
この大会の実行委員長は、去年『闘う衣服』という本を出して話題になっている小野原教子さんである。彼女の関心からも分かるように、この大会のテーマ「着る、纏う、装う」は、必ずしもふつうの意味での衣服やファッションに限定されたものではない。彼女にとってこのテーマは、一方ではヴィヴィアン・ウェストウッド、女子プロレス、ストリップやゴスロリに及び、他方では自己とは何か?身体とは何か?というのっぴきならない問いに触れている。
そんな学会の「トリ」となる対談であるから、やはり最後は「脱ぐ」ことについて語らないわけにはいかないでしょう、という話になった。しかし「脱ぐ」ことについてどんな面白いことを語っても、本当に「脱ぐ」行為には勝てないよな、とも思う。かといって、鷲田さんとぼくが壇上で最後に脱ぐというのも…。
という話をある学生にしたら、しりあがり寿さんの「双子のオヤジ」みたいでかわいいかも、と言われてしまった(笑)。(双子のオヤジは裸だけど身体がほとんど描かれない。)
そういえば、話題になっている『あの日からのマンガ』の中では、双子のオヤジが「ゲンパツ」という名の「危険な女」に出会う。ケガをしているので近づこうとするオヤジたちを「ダメ、近寄らないで!」と制止し、「あーあ、わたしの人生ってなんだったんだろう」と言うのである。
たしかに「脱ぐこと」を「脱」と縮めれば、「脱構築」から「脱原発」まで、これまで当たり前の事実だったもの、身体と一体化するほど自明に感じられてきたものを、実は制度であり衣服であったと分かる契機が、「脱」という語には含まれている。イヴァン・イリイチの「脱学校」「脱病院」という話題もあるし、今やほとんど私語(?)になった「脱サラ」なんてのもあった。究極的には「解脱」もあるけど。
「脱」という言葉には、これまで身につけてきたものをただ捨てる、というだけではなくて、「捨てても大丈夫」であり「捨てた方が健全なのだ」といった認識も含まれているように思える。ぼくはこの点に非常にひかれていて、このことをどのように議論として発展させるか考えている。「脱」が「越え」たり「克服」したりすることと違うのは、それが「進歩」や「成長」に結びつく変化ではなくて、本来の自分を取り戻すことと関係があるからだ。
とにかくこれから話し合いながら、「脱ぐこと」について、「脱」の思想についてのスリリングな対談を鷲田さんと計画していきますので、来たる5月12〜13日はぜひ皆さん、神戸ファッション美術館の日本記号学会大会にお越しください!