私たちは今どんな世界に生きているのだろうか? それはひと言でいうなら、あらゆるものが「営業活動」になってしまうような世界である。商業行為はいうまでもなく、政治も、宗教も、教育も、研究も、文化も、そして個々人の人生そのものすら、ムダを省き、費用対効果を高め、利益を最大化するという目標、つまり「システムを最適化せよ」という至上命令の支配下にあるのである。
あらゆる事柄がひとつの原理で動く世界——シンプルでいいじゃないか!と思う人もいるだろう。たしかに人間性の中には、そうした単純化を好む、愚かしい性向も存在する。ニーチェはそれを「ニヒリズム」と名付けた。ニーチェが教えたのは、生きるとはそうした自然的性向に逆らう闘争にほかならないということだ(しかし『超訳・ニーチェの言葉』では倒錯的なことに、ニーチェ思想自体が営業指針集に変えられている。)
すべてが「営業」になってしまった世界。そこではあらゆる行為が「販売促進」か、さもなければ「営業妨害」とみなされる。1月の中原佑介記念シンポジウムでも、先週の世界メディア芸術コンベンションでも、現代における「批評の不在」が話題になったが、それは批評家の無能や怠慢に帰せられる問題ではなく、究極的な原因は、グローバル資本主義と連動する新自由主義のイデオロギー(「イデオロギーの終焉」というイデオロギー)においては、批評とはたんなる「営業妨害」にすぎなくなるからである。
新自由主義においてはそうした「営業妨害」を自壊させる手段すら、ちゃんと用意されている。それは、批評活動を検閲したり禁止することではない。むしろ反対に「批評、批判は大歓迎です、どんどんやってください」と言われる。そう言われながら、批評的な意識を持つ人間同士の連帯が断たれ、それによって批評の機能は、事実上無効化されているのである。
現代においては、批評家は世界を変革するためにではなく、自分たちのちっぽけな知性や能力を競い合うために批評活動を行うよう、動機づけられている。自分がいかに頭が良いか、いかに外国語に堪能か、いかに「事情通」であるか、いかに弱者の味方であるか、多くの人々が無意識にとらわれている偏見からいかに自由であるか、等々を競い合っているである。その競争に勝利して束の間の喝采を得ることが、批評の成功だとされる。
このことによって、「批評」もまたひとつの「営業」となる。批評は「営業」として存在を許されている。しかしよく考えてみるとそれは、自分が相手より賢く見えるという以外、どんな利益にも変革にも結びつかない、もっとも無力な「営業」である。にもかかわらず批評家自身には「オレは好きなことを言ってるぞ」という自負があり、まさにそうした自負を持っているという点において、ありのままの世界を肯定しているのである。批評には否定が不可欠だとすれば、実は彼は批評などしていないのだ。
たとえちっぽけなものとはいえ、私たちはいろんな素質や個性や才能をもって生まれる。新自由主義的な人生観は、それらを出来るかぎり自分のために役立てなさいと命令する。だがある人が特定の才能に恵まれていることは、どんな国のどんな家の子に生まれたかという事実と同様、ただの偶然である。それは自分の手柄ではなく、世界からの贈り物である。すべての人間的活動とは、究極的には、世界からもらったものを世界に返すという循環的行為に帰着する。そうでなければ、人間的行為はそもそも意味をもたない。
だからわたしも、ない知恵をしぼって「連帯」とか「共有地」とか言っているのである。そのことで理想主義だとか反時代的だとか揶揄されるけれども、その通りだと思う。すべてが「営業」になってしまった世界に抵抗する唯一の方法は、人々が自己利益の最大化という原理から逸脱し、他人のために生きはじめることだと、わたしは信じているからだ。それは何も奉仕活動に従事するということではなくて、自分の仕事を究極的にはそのようなものとして理解するということである。現代における批評とは何よりも、このことを様々な局面において喚起する営為だと、わたしは理解している。