第2回世界メディア芸術コンベンション「想像力の共有地(コモンズ)」が終わった。今回は京都精華大学のジャクリーヌ・ベルント教授に協力を仰ぎ、欧米、韓国、インドネシアからもマンガ・アニメーション関係の研究者を招き、限られた時間にはちょっともったいないくらいの多様な議論が提供された。
前の記事「想像力を共有するとは?」の冒頭でも述べたが、昨年の第1回世界メディア芸術コンベンションは「メディア芸術の地域性と普遍性」というテーマで、その副題には「"クールジャパン"を越えて」とあった。さらに今回の開催趣旨の冒頭にも次のように書いた。「マンガとアニメーションはいわゆる「クールジャパン」の中心的分野とされています。けれども日本文化をユニークで卓越したものとして産業的な関心からプロモートする言葉は、ちっとも「クール」ではない。」と。この「世界メディア芸術コンベンション」という国際会議は、国(文化庁)の催しなのに、よほど"クールジャパン"が嫌いなのだろうと思われた方もいるかもしれない。
おそらく、"クールジャパン"なんて、なんとなく恥ずかしい、と感じている人は少なくないだろう。けれども、こんなに反"クールジャパン"のメッセージを大々的に掲げる国際会議の座長を2年もつとめたわたしは、「なんとなく」ではなく、なぜそうなのかを、ちゃんと説明する必要があるだろう。それを、ここに記しておきたい。
最初に思いつかれる反感の理由はおそらく、"クールジャパン"にはお金の匂いがしすぎる、つまりそれは産業主義、経済主義に主導された言葉だから、というものだろう。その根底には「マンガやアニメのような"文化"を、経済原理から考えてはいけない」という、何というか、これもまたちょっと口に出すのが恥ずかしいような信条がある。それはいわば、一昔前の「良心的左翼知識人」の信条である。たしかに「文化を経済原理で考えてはいけない」という命題は、それ自体として間違っているわけではない。しかしこうした主張が、現在のグローバル資本主義の環境下においては何の実効性をも持たないことは、誰の眼にも明らかなのである。文化の自律性が完膚なきまでに否認されている現実の中で、文化の自律性を抽象的に訴え続けることは自己欺瞞である。
次に、先日の会議の中で小熊英二氏が指摘していた、日本のマンガやアニメの「越境」を可能にした社会的基盤は、今はとっくに失われているという歴史的事実がある。マンガ・アニメの発展は1960年代、70年代の日本が置かれていた社会状況によって可能になったのであり、"クールジャパン"とは実はそうした過去からの遺産にすぎない。マンガやアニメばかりでなく、経済成長という思想そのものもそうだし、「ノーベル賞」だって、30年前の自由な研究環境の賜物である。今はそうした達成を可能にする基盤そのものが失われており、浮かれている場合じゃない、ということだ。
だから今の状況で、「日本人はすぐれた資質があるのだから、ガンバレ!」と激励するつもりで"クールジャパン"を謳っても、それは軍国主義時代における「大和魂」みたいな精神主義の鼓舞と同じで、それを可能にする社会的条件が存在しないのだから、空しい叫びとしか言いようがないのである。そうした理由から"クールジャパン"なんてだめと言うことはできる。けれどもこの批判は、"クールジャパン"とは時代錯誤だという主張であって、"クールジャパン"という概念そのものについての根本的批判ではない。
それに対してぼくは、"クールジャパン"という考え方そのものの中に、何かとても善くないものが潜んでいると思っているのである。それについて簡潔に説明してみよう。
小熊氏は先の講演の中でこんなことも指摘されていた。欧米の批評家は「日本のハイカルチャーはつまらないが大衆文化はすばらい」といった感想を述べることがある、と。つまり日本のハイカルチャーは、近代以前は中国の真似、近代以後は西洋の真似であるのに対し、大衆文化は、江戸の浮世絵にしても、現代のマンガ・アニメにしてもユニークですばらしい、というのだ。たしかにわたし自身も一度ならず、この種の日本文化評価を、欧米人からも、そうした評価に同意する日本人からも、聞いたことがある。そしてその度に、深い嫌悪感をおぼえた。
なぜか。それはこの種の評言が、優越した文化が異文化を評価する際に示す、最悪のスノビズムの表現にほかならないからである。それはちょうど、白人化しようと必死になっているネイティヴ(土人)に対し、白人のインテリが「つまらん。君たちが伝統的に持っていたシャーマニズムやアニミズム方がよほどすばらしい、私たちが失ってしまった魂の故郷を呼びさますものだ。」と誉め称えるようなものである。白人インテリがなんでこんな「優しい」ことが言えるかというと、それは彼らの種族が土人たちをもはや立ち上がれないほどボコボコに痛めつけ、完全に精神的に去勢して安全な対象にした「後」だからなのである。
わたしはけっして、反西洋・反白人的な心情を煽ろうとしているのではない。そうしたことは植民地主義の過程で、世界のいたる所で起こった出来事であり、日本においても(比較的痛みの少ない仕方で)起こったことである。それはもう、取り返しのつかない歴史である。わたしが言いたいのは、現在も聞かれる「日本のハイカルチャーは猿まねだが大衆文化やサブカルチャーは創造的である」という見方の根底に、「被支配者の固有芸術文化を過大に評価する」という力学が作用しているということである。
こうした言説は、支配者自身がそれを口にする時には「自分たちが彼らを滅ぼした」という意識に対する贖罪の意味があり、被支配者がそれを口にする時には、そうした支配者の心情を自分の中に内面化し、それによって支配者と一体化したい、という動機が働いている。"クールジャパン"という語の意味を支えているのは、こうした「内面化された植民地主義」にほかならない。このことが、"クールジャパン"という言葉の中にある善くないものの正体であり、この語にまつわる耐えがたい恥ずかしさの原因なのである。大げさと思われるだろうが、「メディア芸術」をめぐる過去2回の国際会議の企画とはわたしにとっては、日本におけるポスト植民地主義を目指す文化的闘争であったのだ。