「アウトサイダー・アートの三段論法」というのをご存じだろうか? 何、知らない? それは無理もない。たったいま、ぼくが考えたのだから。では教えよう。
- 大前提「すべてのアーティストは本来アウトサイダーである」
- 小前提「人間はみな本来アーティストである」
- 結 論「故に、すべての人間は本来アウトサイダーである」
こうした形式的推論にはぼくは元来あまり関心がないが、ここにあげた大小ふたつの「前提」は、少なくとも芸術を語る時に多くの人が口にする、あるいはある程度認めている命題ではないかと推察する。つまりここでぼくが言いたいのはたんに、それらの通念に従えば、すべての人間がアウトサイダーであることが論理的に導かれる、ということだけである。
すべての人間が本来アウトサイダー? ではインサイダーとはいったい誰なのか?と疑問に思う方もおられるだろう。インサイダーがなけれぱアウトサイダーも定義できないではないか、と。 結論を先に言うなら、インサイダーなど存在しない。「インサイダー」とは、人が自己自身について抱く一種の勘違い、本来的にはアウトサイダーである自分についての、マルクス主義風に言うなら「イデオロギー(虚偽の意識)」、ハイデガー風に言うなら「非本来的」な存在様態のことにすぎないのである。以下、具体的な経験によって説明を試みてみよう。
先日、留学から一時帰国している大学院生と一緒に、国立国際美術館の展示「草間彌生 永遠の永遠の永遠」を観に行った。草間さんの2000年以降の作品――主として正方形に近いキャンバスにアクリルで描かれた大量のタブロー――を紹介する展覧会である。観おわった後学生と話しながら、展示についての感想を言葉にしようとして、口をついて出てきたのは「寂しい」という印象だった。
寂しいとは、何ごとか? それは、草間さんが「遠くなった」と感じたということだ。かつてのソフト・スカルプチュアによるインスタレーション作品などに付きまとっていた何とも居心地の悪い物質感が消えて、草間さんは「精神界」に行ってしまった。そんなふうに思えたのである。心の病を背負い、絶え間なく襲ってくる性の恐怖と死の衝動に対して「アート」をもって闘い、その闘いを通じて人々に宇宙的な愛のメッセージを与える「神様」――草間さんはそういう存在になってしまったみたいだ。
このように草間さんが「遠く」なったことうらはらに、近年の草間彌生は一般的な人気を獲得し、この展覧会にも他の現代美術展にはみられないほど多くの人が訪れていた。元国立国際美術館館長の建畠哲さんがカタログに「みんなのアヴァンギャルド」という文章を寄せられていたが、草間彌生は「みんなの」ものになったのだ。だからその意味では、この展覧会は現在の草間彌生の一般的受容のあり方を正確になぞる展示だということは少なくとも言える。
現代美術の展覧会に多くの人が訪れるのはけっして悪いことではない(どころか、美術館にとってそうした展覧会を企画できるかどうかは死活問題である)。また、「ハイ、ここで写真を撮ってください」みたいな部屋が用意されていて、女子高生のグループがディズニーランドみたいなノリで記念撮影していることも、それ自体が悪いことではもちろんない。
だが、アーティスト=アウトサイダーの作品や生き方によって「元気をもらう」「癒される」というようなことを売り物にする時、そこで「元気をもらい」「癒されて」いる主体とは誰なのか?と問いかける視点を、少なくとも美術展示は持つべきである。その主体こそが実は「インサイダー」にほかならないのだ。この「インサイダー」とは、有り体に言ってしまえば、会社や学校など現実社会にストレスを感じ、疲弊し、傷ついた「私」という、現代人の多くに共有されている虚構である。
そうした「私」がなぜ虚構かというと、それはアーティスト=アウトサイダーを自分自身とはまったく異なった存在として遠ざけることによって成立する自己像だからである。人が社会の中で疲れ傷ついていることはもちろんその通りなのだが、わたしが言いたいのは、「アーティスト=癒す人/私=癒される人」といった一種の「サービス提供者とユーザー」といった構図や「インサイダー」という自己欺瞞を抱えたままでは、人はアートによってもアウトサイダーによっても、本当の意味で元気づけられることも癒されることもないということなのである。
アウトサイダーが排除された存在なのではない。排除されているのは実はインサイダーの方である。というよりも、「インサイダーとしての私」という表象こそが自己自身からの疎外・排除の徴候にほかならず、その根元は自己自身を誤って表象しているという点にあるのだから、「インサイダーなど存在しない」ことを示すことによってしか、人は本当に癒されることはないのである。
つまりぼくがこの展覧会について大きな不満を感じ、また今後の現代美術展示について必要だと考えているのは、アウトサイダー的なるものをもっと近づけること、私たちの自己自身のすぐそばに引き寄せるという課題である。それは社会にとっても国家にとってもきわめて重要なことであり、一般的認知や集客といったこととも、けっして相反する目標ではないのである。