「年が改まる」というのは不思議なイベントだと思う。
西暦や年号の数字は容赦なく進んでゆく。その一方で、正月から大晦日までという同じシナリオが繰り返される。
私たちは反復を通してでしかリニアな時間を経験できない。反復の円環を引き延ばす・あるいは集積するという抽象化によってはじめて、直線的な時間の進行が理解されるのである。反復こそが生の時間の根底にあるからだ。それは世代でも、世紀や千年紀でも、また一ヶ月でも一日でも同じことである。
「反復」が根底にあるから過去を振り返ることが、本当はつい一昨日のことであった2011年を「昨年」として考えることができる。
さてその「昨年」とはどんな年だったか。
2月に文化庁関係の仕事で、「世界メディア芸術コンベンション」の座長というのをやった。これは、実は依頼されたのが一昨年の11月で、つまりほとんど2ヶ月で国際会議を企画するという無茶な、というかラテン的な仕事であった。ぼくはラテン的人間ではないと思っていたが、追い込まれると案外強いタイプではないかとみずからを再発見するほど働いてしまった。(こういうタイプは使われやすいので損である。)会議は「メディア芸術」という日本的概念をめぐるもので、急な要請にもかかわらず駆けつけてくれた国内外の参加者のおかげで、結果的には充実した議論の場になったと思う。
だが会議本番の前日に体調を崩してしまった。それまでも少し風邪気味だったのが、激烈な頭痛と悪寒で歩くのもフラフラになった。休日で病院は開いておらず、仕方がないので救急病院に行って診察を受けたら「副鼻腔炎」だと診断された。風邪の菌が鼻の奥に入り込んで炎症を起こしているだという。安静を強く指示されたが、座長がいないとどうにもならないので、処方された抗生物質を頼りに夕方の新幹線で東京に向かった。
会議が終わって京都に帰り、再び専門医の診察を受けて、生まれてはじめて鼻の穴にカテーテルを挿入され自分の副鼻腔内壁を高解像度のカラー画像で見るという経験をした。救急医の出した抗生物質は強すぎるというので適正な薬を処方され、完治まで2週間くらいかかった。
このことがきっかけで、完治してからも煙草が欲しくなくなってしまった。別にガマンしているというのではなく、本当に吸いたい気持ちが消滅してしまったのである。といっても煙草の匂いが不快になったわけではなく、人が吸っている煙草の香りはいい匂いだと思う。ガマンして禁煙した人は煙草そのものを嫌悪するようになることが多い。その意味でぼくは禁煙しているのではないと思う。煙草への憎悪が起こらないのはたぶん、もともと煙草を愛してはいなかったからかもしれない。そう思うと少し寂しい。(同じことを7月末以降テレビに関しても経験することになる。2011年はそういう年だった)。
そして、3月の地震である。その日はやはり文化庁関係の別の仕事で六本木ヒルズ49階の会議室にいた。着いたのが2時前で、まもなく震度5強の揺れが来た。高層階特有のゆっくりと大きな振幅で怖かったが、窓から見渡す東京の街で何かが崩れたり火災が起こったりするのを目撃するかもしれないことがもっと怖かった。幸いそれはなかったが、まもなくテレビで東北地方の津波の映像を観た。東京はひとまず無事と分かったがエレベータも停止し、歩いて降りても交通機関が止まっているので動くことができない。6時すぎにやっとエレベータが動き始めたので、同じ所に泊まる予定だった精華大学の島本浣さんと築地のホテルまで、大勢の帰宅難民の中を2時間近く歩いて帰った。
その時はまだ東北の被害の規模の全貌は分からなかった。東京の街の風景は日常と非日常が混在していた。余震は深夜まで断続的に続き、怖くてほとんど眠ることができなかった。明くる日の朝、とにかく東京にいても仕方がないので京都に帰ることにした。家に帰ってようやく、今回の災害の途方もない大きさを知った。そしてまもなく自然災害よりもはるかに深刻な原発事故の報道が始まった。その後の日本の状況について考えたことについては、雑誌『アルテス』創刊号に書いた文章や鼎談を参考にしてほしい。
4月には美学会の広報活動のひとつとして、美術家の村上隆さん、東京大学の西村清和さんと3人で「美学VS現代アート」という鼎談を横浜で行った。この催しはもちろん震災以前から計画されていたものだったが、まだ震災から1ヶ月あまりしか経過しておらず、余震も続く横浜である種まだ非日常的な雰囲気の中で行われた。ぼくはそこで "Exposure" という概念を手がかりに話をした。
このシンポジウムは、普通の表面的意味ではうまく行ったとは言えない、つまり話はまったく噛み合わなかったのだが、その噛み合わなさの程度が尋常じゃないという意味において、きわめて意義深いものだったと思う。ぼくの"Exposure"論は、学者の話など聞いていられるかと壇上でツイッターをする村上隆さんの痛々しいまでのパフォーマンスとは勿論、同業者である西村清和さんによる英米美学を基礎にした現代美術分析とも、まったく噛み合わないものであった。だがぼくはこの「鼎談」は、美術家や理論的基盤の異なる研究者どうしが口先だけで「おっしゃる通り」とか「それは面白い」とか言い合う儀礼的シンポジウムより、よほど健全で面白かったと今でも思う。
5月にはやはり美学会関係で、ポーランドのクラクフに行った。当地で2013年に開催される国際美学会に先立って、ポーランドと日本の美学会会員とで小規模なコロキウムが開催されたのである。ぼくはポーランドははじめて、会議終了後にはアウシュヴィッツも訪問した。この時の経験については、いずれまとめて文章化したいと思っている。
音楽学者の岡田暁生さんが、作曲家の三輪眞弘さんとぼくとの3人で、3月11日後の状況について話す機会を作りたいと言っていて、7月にようやく実現した。それが京都芸術センターの講堂で行われた鼎談「3・11—芸術の運命」であり、先述した雑誌『アルテス』創刊号に掲載されたものである。
そして7月末、テレビのアナログ放送が終了した。ぼくは特に主義主張があってというわけではないのだが、地上波デジタルテレビというものを買っていなかった。何となく買う気がしなかったのだが、こうした「何となく」が、少なくともぼくのこれまでの人生においては、習慣を大きく変更するきっかけとして作用してきたような気がする。それで、7月末以来テレビを観ることが(ホテルや食堂などの場所以外では)なくなてしまった。まさに「テレビっ子」と言われた世代で、子供の頃からテレビと共に生きてきたのだから、それがない生活など考えられない、きっと禁断症状が出るだろうと思っていたが、まったく何の心的飢餓も実際上の不便も感じないのである。むしろ身辺は静かになり時間的ゆとりも出来た。これも2月の煙草と同じで、あまりにもあっさりと自分が習慣を捨ててしまったので、本当は自分がテレビなど愛していなかったことがあまりにも明確になり、とても寂しい気持ちがした。今もしている。でも、たぶん元にはもう戻れない。
…等々と、ひさしぶりにネット上にツイッター以外の文を書いたら、いくら何でも長すぎるじゃないか。簡単に昨年を振り返るつもりだったのに。「年が改まる」というイベントの力を甘くみていたな。後半は明日書くことにする。