いま、学部科目の「美学講義」の試験中である。100人以上の学生が熱心に答案に向かっており、教卓でぼくひとりが暇そうに座っているのもつまらないので、これを書いている。先ほどの「志賀理江子のカナリア」は、午前中の大学院の試験中に書いた。ぼくの場合、試験時間はブログ活動が盛んになる。
試験中になぜそんなことができるのか?と思われるかもしれないが、できるのである。ぼくの試験は本でもノートでもネットでも何を参照してもいいし、周囲に迷惑をかけなければ誰と相談しながら回答してもいい(ぼくに相談してもいいのだが、なぜかめったに相談には来ない)。そもそも、教室内で書く必要もなく、図書館や喫茶店に行っても、家に帰ってやってもいい。
したがって、不正行為を取り締まるという意味での監督は必要ない。ぼくが時間内前に座っているのは、もっぱら急病人が出た時や、質問や相談があった時のためだけである。そういうやり方なので、カンニングは原理的に不可能である。また、課題は既存のデータとしての知識を参照してもけっして解けない問題である(こういう問題を考えるのは結構たいへんなのである)。
こんな成績評価をする先生は、学生たちの世間ではきっと「楽勝」と分類されているであろう。だが不思議なことに、30代半ばからこれまで約20年間、いろんな大学でこの種の試験をしてきたが、そのために一度として「甘くみられた」と感じたことはない。学生に舐められないように授業や試験に厳しいルールを課している人もいるが、ルールを厳しくすればするほど、そのルールさえクリアすればいいのだから本当はそっちの方が「楽勝」かもしれない。
それに比べてぼくのようなやり方は、学生のほとんどはそれまで経験したことがなく、また何が出題されるかいつも予測不能なので、けっこう緊張感を持っているようである。それがいいことなのか悪いことなのか、ぼくには分からないが、とにかくこういうやり方しかできない。それはぼくにとって、ぼくが講義している美学や芸術学という学問の本質的特性から由来することなのである。
美学・芸術学は本質的に、「試験」という仕組みに従属させることができない。無理に試験らしい体裁を整えることはやろうと思えばできるが、それは半分冗談みたいなことになる(たとえば「カント美学における《無関心性》の概念を分かりやすく説明せよ」とか)。そういうマトモな試験も昔は試みたことがあるが、ある時期からバカらしくなってやめてしまった。というより、芸術学のマトモな試験をすることは、芸術学の教育上、有害なのだ。
「試験」とはそもそも何か? 芸術学の立場から言うと、それはいわば現代演劇の一種である。だがシナリオはもはや使い古され、アクターたちは義務的に演じている。試験という演劇のシナリオは、知識や情報をめぐる環境が今とはまったく異なった時代に書かれたものだからだ。だが大学という劇場では、毎年この定期公演をしないといけない。だからぼくはこのシナリオをほんの少しだけ書き直して、役者たちに少しは演じる気が出るようにと試みているだけなのである。