名古屋のジャクソン・ポロック展の翌日は豊田市まで足を伸ばし、豊田市美術館で山本糾の「光・水・電気」と「見えるもの/見えないもの」とを観て、2時から講堂で志賀理江子のトーク「腹の中のカナリア」を聴く。
「見えるもの/見えないもの」は所蔵品を中心にした特別常設展で、3月25日まで開かれている。メルロ=ポンティの遺稿断片を集めた本のタイトルを連想させるが、特に参照されているわけではない。ただこの展覧会もまた、写真という行為に対するさまざまなアプローチが集められているという点で興味深かった。
すべての写真的行為には特定の参照枠(frame of reference)がある。撮影者と被写体があれば写真が生まれるというものではない。写真が成立するためには、「撮る」という行為が最終的にそこへと関係づけられる、世界の境域が設定される必要があるのである。
日常的なスナップショットを撮る時、その参照枠はいわば個人的な日常生活である。それに対して写真家は、たとえ私的日常を撮っているように見えても、その参照枠はより広く共有可能な何かである。この展示で観られる作家を例にとるなら、それは「人生」(荒木経惟)であったり、「社会の中の身体」(ソフィー・カル)であったり、「イメージの膨大な資料体」(杉本博司)であったりする。
そうした中で志賀理江子の「カナリア」は、ずば抜けたスケールの大きさを持って迫ってくる。観る者を不安にさせるほどパワーがある。それは、彼女の写真の参照点がいわば「生(なま)の宇宙」だからだ。志賀が関心を抱いているのは、イメージでないものからイメージが立ち上がる瞬間であり、つねにその瞬間へとまっしぐらに向かってゆく。
今回はじめて聴いた彼女のトークも印象的だった。「カナリア」制作時のエピソードも面白かったが、何といっても驚いたのは、イメージが超時間的な本質をもつことを説明するために彼女が最後に示した写真(というか一種のダイアグラム)である。
彼女は砂浜に倒れた松を押している。樹は根元の部分がまだつながっているので、幹の突出した部分や枝によって砂の上にいくつもの同心円が描かれる。彼女が押している中心から比較的近い部分は、対面する弧も比較的近い。それに対して外側に行くほど、当然弧は緩やかになり、対面する弧の部分どうしの距離は遠くなってゆく。
この中心に近い部分(中心そのものは見ることができない)の刻みつける痕跡が、写真(イメージ)だと言うのである。そこには時間は存在しない。イメージが永続するという意味ではなく、端的に時間と無関係に在るということである。それでは時間はどこに現れるかといえば、それは外側の、緩やかになった弧がそれだと言うのである。だいたいそのように聴いたのだが、もちろんこの説明にはぼくのパラフレーズもある。
イメージとは時間の中に生起する何かではなく、逆に時間の方が、イメージから遠ざかりそれが硬化することによって生まれる。哲学的にはきわめてまっとうな洞察であるが、それを「砂浜に倒れた松を押す」という荒々しい行為のダイアグラムで示しうるとは、類い希な思考力だと思う。志賀理江子の話すのは今回初めて聴いたが、このカナリアの感知能力はただものではないことを確認した。