「センター試験」は、ぼくは(もちろん)受けたことはなく、その前の「共通一次試験」すら、(幸運にも)ギリギリ免れた世代である。ただ、よく憶えていないのだが共通試験の実施準備のための模擬試験みたいなのを高校で受けさせられたような気がする。そのときに「マークシート」の解答用紙というのがはじめて配られ、字を書かなくていいのは楽だなと思った(自分の字が嫌いだったので)。これは機械が読み取って採点するのだと聞かされ「未来だなー」とも思った。
「偏差値」という言葉が聞かれはじめたのもその頃(1970年代後半)である。自分の学力を点数よりも正確に知ることのできる数値だという説明だったがよく分からなかった。説明している先生も本当は分かっていないみたいだった。大手予備校の実施する模擬テストの結果が返ってくると、点数や順位とは別に「偏差値」という項目があったんだけど、毎回10ポイントも20ポイントも上下するので、学力というのはこんなに変動するものかと思った。「合格率」も80%と出て喜んでいたら次の試験では45%になったり、当時は受験者数も少なく統計的に有意な数値が出なかったのだと思うが、いくら正確な指標だと言われてもこんなに不安定では信頼できない。「偏差値」も「合格率」も占いみたいんなもんだろうと思っていた。
それで本番の大学入試だが、京都大学は学生運動によって試験妨害の可能性があるというので、岡崎にある専門学校の校舎で入学試験が実施された。その時のことで今でも憶えているのは、ぼくの指示された最後部の長机の隣の席がたまたま空いていて、そこに年配の試験監督が途中から腰掛け、しばらくすると爆睡しはじめたことである。時々イビキが聞こえてくるので、その度にぼくを含め周囲の受験者からクスクス笑いがもれ、本当になごやかな雰囲気の中で数学の問題を解くことができた(自慢じゃないが200点満点で198点だった。うれしかったので今でも憶えている)。合格できたのはこの監督のおかげかもしれない。
さて1990年代はじめに自分が大学教員として働きはじめると、今度は試験を監督する側にまわった。1999年まで勤めていた私立大学はセンター試験の会場になっていたので、その監督も何度か担当した。まだ共通一次試験が「センター試験」として再スタートしたばかりの頃で、いろんな戸惑いやハプニングもあった。大学教員の中にも異様にきっちりと物事を管理するのが好きな人はいるのだが、その頃のセンセイはそれでもまだどこか間抜けなところがあったからである。
英語や漢字などが書いてある服は脱がせる、というような指示があったので「女子もか?」「風邪ひくやないか」などと話し合い、けっきょく何もしなかった。壇上でマニュアルの指示を読み上げながら「机の上に出していいものは…計時機能のみの時計? 今どきそんな時計あるんか?」と自分でツッコミを入れている監督がいた。休み時間に「君はどこ受けるんや?頑張りや。あかんかったらうちで面倒みたる」などと受験生と私語している先生もいた。
ぼくは教員としてはまだ若造だったのでわりとおとなしくしていたのだが、ある時最前列にいた男の子が「合格祈願のお守り、机に出しといてもいいですか?」と切実そうな顔で聞くので何だか可愛くなり「ええよ、それぐらい」と答えたら、会場主任の他学部の教授から「ダメですよ!」と一喝された。それでついムッとなって「別にええやないですか、お守りぐらい。漢字の書取りで『北野天満宮』なんて出えへんし」と食いさがったら、一瞬たじろいだ後「実施本部に問い合わせてみる」と言う。やれやれと思っていたらその子が「いいです、そんな大層な事になるんやったら…」とお守りをカバンに片付けた。
それは1998年頃かな。その頃から大学は急速に別な世界へと変わりはじめ、入学試験は一種のお祭りめいたものから、しだいにピリピリした儀式的出来事へと変質していった。試験とは演劇みたいなもんだと前に書いたが、それはかつては喜劇だった。喜劇が人間の弱さや愚かさを笑うことで、現実の狂気から一瞬でも距離をとりうるのなら、いくらバカげた芝居を演じていても、それは健全なことである。だが今の試験はもはや喜劇でも祝祭でもなくなり、集団で演じられるカフカ的狂気、一種のシュルレアリスム演劇となった。こういう劇は、長時間観ているのはつらい。
そういうわけだから、毎年センター試験でいろんなアクシデントが起こったという報道を耳にする度、ぼくたちは実は心の底では、ひそかな安堵を感じているのだ。