…というものについて、「ナツメロ」的な視点からではなく、真面目に考える必要があるな、と1月21日のシンポジウムを終えて思った。「1950年代学会」とか作るもいいかもしれない。ぼくはもうこれ以上学会は増やせないので、若くて元気な人が誰か立ち上げてくれないかな。1950年代文化(つまり高度経済成長以前の日本)を考えることは、この国の「いま」と未来を考えるためにも、とても重要だと思うのだが。
その京都精華大学でのシンポジウム「批評の技法(アート)—現代美術の実践とことば」は、悪天候の中100人以上の人が来て熱心に聴講してくれ、よい催しになったと思う。司会の佐藤守弘さんからは最初、別に中原佑介の追悼シンポジウムではないので、批評や美術に関して好きなことをしゃべってくれればいいと言われていたが、結果的には中原佑介とそれをめぐる1950年代から70年代にかけての日本の批評や芸術文化のことに話題が集中した。それでよかったと思う。
上智大学の林道郎さんの話で「共犯者としての批評家」という話題が面白かった。中原佑介は推理小説のファンだったので、芸術を語るのに「犯罪」にまつわる比喩を使う。しかしたんなる比喩ではなく、1950年代から少なくとも70年代くらいまでの前衛芸術は、今の通念からすれば文字通り犯罪(あるいは何らかの違法行為)となるようなものが多かったと思う。中には実際に裁判にまで発展する場合もあったが、大半は「まあ、これくらいはいいか」と許容してしまう社会的寛容性によって黙認されていた。
1970年の「人間と物質」展(第10回東京ビエンナーレ)に、中原はリチャード・セラを招待した。当時そのアシスタントを頼まれた写真家の安齊重男さんが思い出を記している。セラの「作品」は大きな鉄製のアングルを地面に埋めることと、ヒマラヤ杉を一本上野公園に植えるというものであった。鉄を埋めるために近代美術館の階段下を掘っていると館員が飛んで来て、そんな先例を作ってもらっては困る、と制止される。一方杉の方は公園の管理事務所に行くと、申請して許可を取るのに2ヶ月かかると言われる。けれども「しばらくジーッとねばっていたら、おじさんがぼくのことろに来て、小声で『朝早くこっそり植えちゃってくれ』」とささやいたのだそうだ。それで鉄製アングルの作品の方も美術館はあきらめて公園の方にお願いしたら、「これも早朝だな」。(『中原佑介美術批評選集』第5巻の「通信」)
中原佑介の批評文の「読みにくさ」も話題になった。中原は京大理学部の湯川秀樹研究室で理論物理を専攻していたので、その文体は科学的・論理的と評されることもあるが、ぼくは今回読んでみて、むしろ論理の不透明さ、記述の独特のねじれ、慌てて強引に下される結論など、科学的冷静さからはほど遠い特徴ばかりが気になり、正直とても読みづらい文章だと感じた。だがぼくよりもはるかにたくさん中原の文章を読んでいる加治屋健司さん、林道郎さんも同意したので、あながちぼくだけの印象ではないことが分かった。
だがそれを、一人の書き手の性格や能力に還元するのは正しくないだろう。1950年代における「美術批評」なるものは、かなり小さな規模の文化的コミュニティの中にあり、数少ない批評家たちが毎月いろいろな雑誌に大量のテキストを書いていたのである。締切を過ぎた仕事を徹夜で終え、フラフラで手書きの原稿を抱えて編集者と待ち合わせた喫茶店に向かう、というような光景が目に浮かぶ。いってみれば、マンガ家のような状況なのである。そういうヤケクソの雰囲気や、メディア環境をも含めたテキスト生産の全体的文脈を考えなければ、1950年代の批評(そしてもちろんそれが対象としていた芸術現象)を、適切に理解することは不可能だろう。