誰がだれのマネしたとかせんとか、もう本当にウルサイことである。
オリジナリティとは何かという問題についてついぞ考えたこともなく、今後もけっして考えないであろう人たちだけが、盗用があったとかなかったとか、そんなことだけで騒ぎたがるのである。騒ぎたければ勝手に騒げばよいが、そのことによって等閑視されてしまう問題があり、それが美学的には重要な問題なのである。
オリジナリティとは何かをちゃんと考えたことのない人たちにとって、オリジナリティとはたんに、他のものに似ていないということにすぎない。そういうオリジナリティだったら、ネット検索で容易に判定できる。そんなことはまあ、美学的には、どうでもいい。いや、むしろ有害な態度である。なぜならそうした態度は、作品をちゃんと視て真剣に思考することから、私たちをどんどん遠ざけてしまうからである。
類例がないからオリジナルだという考えは、戦争がないから平和だという考えに似ている。いわばそれは、消極的なオリジナリティである。たまたま戦争をしないで済んだということが別に手柄にならないように、たまたま似たものがなかったということはただの偶然であり、そんなオリジナリティはけっして自慢できるようなものではない。
カントが「オリジナリティ」と言うとき、それは「技術に規則を与える」という意味である。つまりそれは積極的なオリジナリティであり、才能ある後継者たちが「真似したい!」と強烈に思うような、イケてるスタイルということである。過去に類例があるかないかなんて、関係ない。仮に過去に似たものがあったとしても、それは今のこれにつながる予兆にほかならなかったのだ、と思えるような力が、オリジナリティである。
そういえば、ぼくもこれまで何度か参照してきた、ポーランドの社会学者ジグムント・バウマンも、コピペや引用の問題でやり玉にあげられているらしい。特に問題視されているのは、自分自身の過去の著作からの引用だ。自分の著作だから法的には問題ないのかもしれないが、新しく出した本の内容が昔の自著のコピペだったら、それはオリジナルではないと非難する人がいる。
つまり、高名な社会学者バウマンの新著をお金を出して買ったのに、前に読んだことのくり返しじゃないか、金返せ!ということだろう。ようするに、金の問題なのだ。まことに下世話な話である。本当に価値のある内容は何度繰り返しても簡単には摩滅しない。でも「金返せ!」と言っている人は、内容には関心がないのである。
ぼく自身も自分が昔書いたものを読んで、なんだ、今書いてることも結局これと同じじゃないか、と思うことがある。意識的にコピペしたわけではないが、ある問題について真剣に考えると、書いてることは似てきてしまうのである。そういうことがあっても、ぼくはきわめてマイナーな書き手にすぎないから誰も非難しない。バウマンは世界的に有名な学者だから多くの人がチェックし、類例が発見されてしまう。それだけのことである。
ぼくのような凡庸な書き手は言うまでもないが、はるかに才能に恵まれた書き手ですら、人間はオリジナルなものをそうそう次から次へと作り出せるものではない。それは少しでも何かを書いたり作ったりしたことのある人なら分かることである。自分が見聞きしたものや、自分が過去に作ったものに似てしまうことはよくあることだ。それ自体はあたりまえのことである。
問題は、過去の何かを真似ているかどうかではなくて、未来の誰かがそれを真似るかどうかということである。ぼくは、コピーは許されるとか、今やもうコピーしかないというような主張を擁護するためにこれを書いているのではない。むしろその逆である。オリジナリティは頑として存在する。けれども、他の事例との類同だけを問題にするレベルの議論は、このオリジナリティを見えなくする。いやむしろ、この真の意味でのオリジナリティに直面したくないために、人々は盗用・盗作ばかりを騒ぎ立てているのではないかとすら、思われるのである。