先日久しぶりに会った知人が何の前置きもなく「君もたいへんだなぁ」としみじみ言うので、いったい何のことかと訊ねたら、国は大学には人文社会科学、とりわけ文学部なんてもう必要ない、という方針なんだろう? 自分は大学の事情はよく知らないが、ニュースで大々的に報道されているからみんな知ってるよ、講義で学生たちに「ぼくたちどうなるんですか?」なんて聞かれたらどう答えるの? と。つまりぼくが文学部の教授であることを知っているので、心配してくれたわけだ。
実はこのような問いは、講義の後すでにある学生から質問されたことがある。それでぼくはどう答えたかというと、「文学部がなくなったって、ぜんぜん大丈夫」というものだった。ちょっとヤケクソに聞こえるかもしれないけど、その時はなぜかそうとしか答えられなかった。本質的な問題は「文学部」とか「何々学」などという制度の存続ではないし、自分が今たまたまそうした制度の中で仕事をしているから、それを国が潰しにかかるとはケシカラン! などという話だったら、それは結局のところ単なる利害闘争である。もうちょっと違う考え方をしようよ、と言いたかったのだ。
かりに日本中の文学部が廃止されても、人類文明における文学、あるいは人文学的知識の本質的な重要性は、何ひとつ変わることはない。これは、ある国のある時代のケチくさい内部事情とはまったく関わりのない、普遍的真理である。制度的にいくら滅ぼされても、人文学的な知識活動そのものは、名前はどうあれ、いずれ何らかの形で再興されざるをえない。だが制度を新たに作るのは、一般にそれを壊すより百倍も労力のかかる事だから、その意味においては、文学部その他の人文社会科学系学部を廃止するなんて愚の骨頂である。「なくなってもいい」というのは、「お前はそこの人間だから言うんだろう?」みたいな下卑た邪推に関わりたくないから言っただけだ。
でもこんな言い方でもたぶん「お高くとまってる」などと受けとる人はいることだろう。まあ「お高く」というのは、ある意味その通りかもしれない。「高さ」を目指さなければ、どんな学びもないからである。とはいえ「高さ」というのはただの比喩で、そこから「階級」「エリート主義」みたいなことを連想されるから拒絶感を持つ人がいるのだろう。でも「高さ」というの本当のところ、余裕や配慮、注意深さ、といったものの別称にすぎない。人文学的な知識活動とは簡単に言うなら、言葉を配慮をもって読み、注意深く使う訓練のことなのである。だから本質的な問題は、人文社会科学系学部に対する攻撃ではなくて、言葉を丁寧に扱うという人間の営みそれ自体への攻撃である。
その攻撃はどのように遂行されているかというと、劣化した言葉が政策として大手を振ってまかり通ること、言語活動に対する暴力やレイプとしか思えないものに、政治的な権能が与えられるという仕方によってである。 たとえば戦後70年を記して公表された今回の首相談話の言葉。この文言自体は、その意図的な矛盾や不整合も含め、並大抵ではない技能によって巧妙に作文されたものだが、それほどの言語能力をもって言語そのものの生命を愚弄し尽くすという、グロテスクな悪意に貫かれたテキストである。とはいえ、邪悪なものはどこかにみずからの弱点を露見するものであり、それはこのテキストの場合、たとえば次のような箇所に容易にみてとることができる。
日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
歴史的・政治的な文脈ではすでに何人かの人がこの文言の背後に潜む策略を指摘しているようだが、いまぼくが特に注目したいのは「あの戦争には何ら関わりのない」という箇所である。これはどういう意味だろうか? 高校生・受験生の諸君は現代文の読解問題として解いてみてほしい。するとその直前に戦後生まれの人口が増えているという箇所があるから、「関わりのない」とは「あの戦争の時には生まれていなかった」という意味であろうと推論できる。つまり「その場にいなかった」からどうしようもない、ということを「何ら関わりのない」と表現しているということだ(本当は「責任がない」と言いたかったのだろうけど、それでは批難を浴びかねないと思い「関わりがない」とした)。そして後半は、何ら関わりはないけれども、親や先祖のやったことだからその事実には向き合わなければならない、というようなことを言っているのだろう。
けれどもこれはまったくの錯誤であり、いかなる現実的態度にも対応していない空言である。どんな過去にせよ、私たちは「自分に切実にかかわりがある」と感じるからこそ、向き合うのものだからだ。そんなこと当たり前であり、自分には何の関わりもないのに義務感だけで過去と向き合う、などというのは自己欺瞞である。このことは戦争責任というような文脈を越えて、より普遍的な意味においてもそのとおりなのである。たとえばぼくは日常的に、何百年も前に他の国で書かれたテキストを読んでいるが、それは歴史的な興味からでもなければ、その分野の研究者だからという義務感からでもない。仕事だったらこんな効率の悪いことは誰もしない。自分に関わりがあるからそうするのであり、そうでなければ昔書かれたものを読む理由なんてまったくない。言葉を丁寧に扱うというのはそういうことである。つまりそれは、死者たちに配慮するということである。
まったく抽象的なことでも難解なことでもなく、端的な事実として、言葉とは死者たちによって、私たちの前にもたらされたものだからである。死者たちに配慮するのは道徳的な義務感からではなく、自分の問題だからだ。私たちは、生身の自分がその場に居合わせなくても、事柄を自分に関わりのあるものとして考えることができ、それを可能にしているものこそが言葉である。言葉をそのように理解することが、文学的・人文学的な知識に関わる人たちの連帯を可能にしている。だからそうした知識に対して暴力を振るう劣化した言葉に対して、同じような暴力のレベルで抵抗しても仕方がないと考えている。抵抗はもっぱら、配慮と注意深さをもって言葉を使い続けることによってしか遂行できないとは思っているのだが、あまり禁欲的に考えるのも言葉の本質にはそぐわないし、まあ時々は乱暴な抵抗もしたくなったりはするのである。