生存の基本的衝動は抑えがたい、などというのは真っ赤なウソである。
多くの人がいつも好んで言及したがる人間の基本的衝動というのは、たとえば食欲と性欲だ。でも本当は、食欲や性欲ほど脆弱なものはないのである。人がそれらを、生きているかぎり逃れがたいものだとみなしたがるのは、本当はそれらが、常に社会的な条件付けによってバックアップしていなければ、すぐに壊れてしまうようなものだからだ。カスパー・ハウザーのような、社会から隔離されて育った人間の記録をみると、食欲もつつましく、性欲はそもそも発現しない。金銭欲はまったく理解出来ず、他人を支配したいという欲求もない。
人間とは本来そういうものなのだ、と思う。
つまり、私たちが必要以上に食べたいと思ったり、モテたい、セックスしたいと思ったり、お金が欲しい、人から尊敬されたい、人に言うことを聞かせたい、等々と思い、そしてそうした衝動が抑えがたいように感じているのは、たんに私たちが毎日テレビを観たり、ネットを観たり、新聞や週刊誌を読んだり、周囲の人間たちとたえず話しているという、そういう習慣の中にいるからにすぎないのである。
だから、食欲や性欲、金銭や名声に対する欲求、等々をコントロールすることは、本当はそれほど難しいことではない。それらがさも難しいように語られるのは、そうしないと宗教団体や道徳家たちが商売にならないからである。まったく彼らの営業のためであって、迷惑な話である。いや、それ以外の人々も、そうしたものは人間の「業」や「宿命」であって、それらがないと文学にもネタがなくなるし、あった方がいいと考えているのだから共犯的ではある。
でも人間の衝動の中には、そうしたどうでもいいような欲求の類とはレベルの違う、本当に厄介なものもある。それは、恐怖と攻撃性だ。これは社会的な条件付けを超えて、身体に深く根ざしている。だから簡単にコントロールすることはできないのだが、だからこそ真剣に立ち向かう必要がある。
山極寿一さんの本を読んでいると、アフリカでゴリラと遭遇した西洋人たちは、恐怖と攻撃という衝動に対していかに無力だったかが分かる。ゴリラは胸を叩く「ドラミング」という動作をするが、それはいわば「ケンカになるからこれ以上近づくな」というサインだった。けれども銃を持った西洋人たちはそれを見て恐怖にかられ、威嚇と攻撃のサインだと誤解し、射殺してしまった。ゴリラのドラミングのイメージはさらに1933年のハリウッド映画『キングコング』によって、女性をさらうというまったく無関係な性的恐怖と結びつけられ、一般に流布し浸透した。
まったく馬鹿げたことでしかないのだが、内的な恐怖に対するこんな幼稚な反応のパターンが、マジメな(であるはずの)政治的行動の基本的動機を決定している。人々は、恐るべき敵は外にいるのだと、つまりどこかに「テロリスト」がおり、彼らによって「テロ」が引き起こされるのだという考えに誘導される。それは間違いである。こうした間違いは、何度も何度も、歴史の様々な局面で反復されてきた。本質的な敵は、私たちの内部にある恐怖(terror)である。このことが分からないのは愚かさである。だから、この度しがたい愚かさこそが、直近の敵であるとも言える。