もちろん、会田誠は天才ではない。というよりも、かれはきわめて明敏な思考力に恵まれた作家であり、美術における「天才」などというものを信じるようなナイーヴさは、みじんも持ち合わせていないのである。そうでなければ「天才でごめなんなさい」なんていう展覧会名を付けられるわけがない。ではこの、一見人をくったような日本語タイトル(英語ではもちろん"Sorry for Being Genius"などとはなっていない)はいったい何なのだろうか? 実はこれは、ある暗号めいたものではないかとぼくは感じた。そのことをちょっと考えてみたい。
会田誠は天才ではないが、実に突出した才能に恵まれた美術家である。絵画の才能もコンセプチュアルな操作の才能も兼ね備えており、無敵のようにみえる。しかも村上隆のように隠したり防衛したりする傾向もなく、自分の手の内をあっさり見せてしまう。自己を神秘化せず、素朴さ、素人臭さへの通路を常に開いたままにしている。美的洗練のような簡単なことに心血を注ぐのは、美術家としての誠実さに反すると確信しているかのようである。だから難解な箇所はひとつもない。一見複雑なことをしているようにみえるかもれしないが、注意深く見れば何をどう操作しているのかはすべて公開されている。オープンソースなのである。そしてそれが弱点にならない。
そうしたことが可能なのは、彼の作品がいわゆる「計算」の結果ではないからである。自分の中に入ってくる様々な要素を、記号的なレベルで緩やかに結びつけるというオペレーションを加えた後、それらをかなり散らかった状態のままで提示する。「戦争」に言及するときも、戦争そのものが問題になることはなく、「戦争」が自分の内に引き起こす混乱のリアリティが問題となる。美術史が参照されている時でも、それは森村泰昌のような直接的で緊張を伴った対決ではなく、気づいても気づかなくてもいいような、ユルい言及である。岩波文庫版のカントの『判断力批判』のページ上に落書きした作品も、美学への反抗とか揶揄ではなくて「読もうとしたけどワケ分からんかったので、ついこんな事やってしまいました」みたいなことなのである。
会田誠の美術を成り立たせているのはそうした、散らかった状態を散らかったままに提示できる、ある種の写実の才能である。そんなこと簡単だと思われるかもれしないが、けっして簡単ではない。ほとんどの人は混乱をそのまま提示したつもりでも、無意識にある計算を行ってしまうからである。身の回りの雑多なものをただ並べた「散らかり系」(この言い方は松尾恵さんから聞いた)美術作品は多いが、そのほとんどがつまらないのは、「現代ではこういう自己表現もアリなんでしょ?」と計算している作者が透けて見えるからである。
そのように考えているので、ぼくにとって会田誠の美術を本質的に構成しているのは、エログロでも、政治性でも、社会批判でも、美術史の参照でもなく、またそれらを適度に混合していかに美術らしく見せるかという計算でもなく、「今、美術について考える時に私たちが置かれている共通の状況を、いかに正確に描くか?」という、かなり真摯で禁欲的な意識なのである。そこからこの暗号めいたタイトルの意味も少し分かってくる。それは「自分には才能しかないのだろうか?」という苛立ちを伴った自問であり、また「美術とは才能だけでいいのだろうか?」というより一般的な問いでもある。ソースコードをすべて公開しても残り続ける不透明なものとは何か? …ようするに、ぼくは会田誠のことをかなりモダニストだと解釈しているのだろう。たぶん。【ちょっと未完】
【付記】
ここまで書いた時、森美術館で展示中の一部の作品が、「倫理的」な理由から不適切でああるとして抗議を受けていることを知った。とくに問題視されているのは、四肢を切断し首輪を付けられた全裸の少女が描かれている「犬」シリーズである。これは美術に関わる、古くて新しい一般的問題であるので、上の結論は中断してこの機会に私見を述べておきたい。(といってもこれは、すぐに役立つ方策でもなければ、この種の問題に対するぼくの政治的立場を説明するものでもないのだが。)
これらのイメージはたしかに人を混乱させる。混乱させるという意味は、ほとんどの人はそれらに不快感を感じると同時に魅了されるということである。ぼくも、好きか嫌いかと言われたら嫌いである(買って家に置きたいとは思わない)。けれども眼が離せない自分もいる。その両面があるから人は混乱し、これをどう考えればいいのかという思考へと導かれることになる。会田の作品は、人を一般にそうした思考へ導くことを意識して丁寧に描かれている。だからこれらが猟奇的ポルノと異なるのは自明であって、ポルノグラフィックなイメージというのは両面感情をなるべく早く既知の快感へと収束させて商品価値を高めたり、最初からあるマニアのグループに向けて制作されているからだ。
これらの作品を「こんなものは性差別でありポルノと違わない。いったいどこが美術なのか?」と抗議する人々は、不快感を感じると同時に魅了されてしまった自分を認めることができず、そのことを抑圧してしまうために、感情的な拒否の態度が生じているのである。だからそういう人たちに「お前らは美術が分かっていない」と非難しても納得しない(もちろんぽくのこのテクストを読んでも納得はしないだろうが)。というのも彼女ら或いは彼らは、本当は美術とポルノの区別がちゃんとついてるからこそ、美術作品の特質である両面性に耐えることができず、だからこそ声を荒らげて否定しようとしている、そういうことだからである。否定しようとしているのは本当は作品ではなくて、それに魅了され欲情してしまった自分自身なのだ。本当にその人たちが必要としているのは議論ではなくて治癒(つまり自覚)なのである。
というのが率直な見解なのだが、もちろんこんな言い方ではそういう人たちは「学者がまた上から目線で非現実的なことを言って人をバカにしている」としか受けとらないだろう。ぼくは職業上、美学・芸術学の先生ということになっているが、芸術が芸術であるという理由だけで無条件に尊重されるべきだなどとは思っていない。ただ、世界には簡単な客観的基準で判断可能な問題と、時間をかけた反省的思考を本質的に必要とする問題とがあり、後者を前者へと還元する暴力から護るために、「芸術」という言葉を手がかりにすることはある。「芸術」は明示的にそれを必要とする人にとってだけの特殊問題ではなく、(無意識的に芸術を拒絶する人も含む)すべての人にとっての問題だから、非暴力と治癒(自覚)への意志だけが、それを護れるのだと考えている。