ずいぶん間が空いた。思い出したようにブログを書く。昨晩話した内容を記録しておく。上賀茂で3月15日から始まった美術展「石に話すことを教える」のオープニングでこの展覧会のコンセプトに関わる短い話をした。
そもそも「石」とは何か。それは「鉱物」あるいは「岩石」である。鉱物とは、マグマの活動、岩盤の移動・変形、風化、堆積などの地質作用によって作られた自然界の固体、というような定義らしい。そして岩石とは、鉱物の粒子が凝固したものだということである。地学ではそう説明するらしい。「石」はそれらを包括する曖昧な言葉ではあるけれども、同時に私たちが日常的に目にしたり拾い上げたりできるものを指す身近な言葉でもある。
石は土の上に、あるいは土の中にある。それでは「土」とはそもそも何だろう? 土とは、細かな石(砂)と有機物(動植物の死骸や糞、バクテリア)が混ざったものだと言えるだろう。ダーウィンは、ミミズの糞が土壌を作るという研究 (The Formation of Vegetable Mould through the Action of Worms, with Observations of their Habits, 1881.)を行った。土壌がなければ農業はできない(土壌なしの作物工場のようなものもあるけれど)。私たちが毎日野菜を食べられるのは、長い年月をかけて土壌を形成してくれた生き物の活動のおかげである。
土は生物活動によって造られるのだから、生物がいない地球に土はなかった。岩石、つまり石だけの世界である。宇宙全体を考えてみても、ほとんどは鉱物や岩石だけだと言える。もちろん私たちに馴染み深い姿で存在するとは限らず、溶岩だったり、超高温のガス状だったり、プラズマだったりする。けれどもそれらは生命活動に無関係という点では、「石」につながるものである。
それに対して「土」的なものは、宇宙のほんの限られた場所にしかない。地球にだって、地表付近の薄い膜のような層にしか存在しない。私たちはその上で生きているので、広大な大地が広がっているように感じるだけである。
世界を「石」と「土」とに分けてみると、世界のほとんどは「石」である。しかし私たちは「土」的な環境の中で生きている。私たち自身も「土」なのである。私たちはやがて死ぬし、土葬しても火葬してもいずれは土に帰るからである。私たちが身につける衣服や、住んでいる住居も、有機物であればやがて腐食し分解されて土になる。石も破砕したり溶解して姿を変えるかもしれないが、生き物よりはずっと長くその存在を保ち続ける。
この類型は日本神話にもある。 『古事記』の天孫降臨において、高天原から高千穂に降り立った瓊瓊杵尊は、国津神である大山祇神の娘、木花咲耶姫に一目惚れする。父の大山祇神は、姉の石長比売と一緒に貰ってくれるなら差し上げましょうと言う。木花咲耶姫は名前からして想像できるような超絶美少女であるが、石長比売は醜い。それで瓊瓊杵尊は石長比売のみを返してしまうのだが、それに対して大山祇神は、石長比売は石のように永遠の命を代表する存在なのに、それを拒んだあなたは神といえども限りある命の存在となる、と告げるのである。
物語的な想像力の中では、石は一見不動性、不活性な存在のように見える反面、その内部に何かとてつもないエネルギーが封印されている、というふうにも語られてきた。『水滸伝』では、百八の魔星を封印した「遇洪而開(こうにあいてひらく)」と記された石碑を取り除くと、閃光と共に三十六の天罡星と七十二の地煞星が天空へと飛び去る。『西遊記』では、花果山の頂にある仙石が割れて石の卵が生まれ、そこから一匹の石猿、つまり孫悟空が孵る。また『紅楼夢』は、女媧が天を修繕した際に1つ余った石が人間界に降り、主人公の賈宝玉となることから『石頭記』と題された。
スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』に出てくる謎の物体「モノリス」は、エネルギーというよりは何か宇宙的知性のようなものを封印していて、それに触れることで私たちの祖先の猿人たちが知性を持つ存在へと変化した。これは石といっても石板のような形で、旧約聖書におけるモーセの十戒の石板を連想させる。だがより広く解釈するなら、モノリスとは「一個の石」であって、日本なら神社の本殿の背後などにある特別な石、神が依代とする磐座もそうである。
YouTubeのチャンネル(@hirutanu)の「資本主義の美学」で取り上げたこともあるヤップ島の石の貨幣「フェイ」も、その合理的な側面においては、貨幣の本質とは負債の記録であるという信用貨幣論にインスピレーションを与えたものではあるが、もちろんそれが石であることは、そこに神的な力が憑依するという考え方にもつながっている。
亡くなった室井尚さんから聞いた話だけれど、彼は昔、核燃料の廃棄物に関する通産省のシンクタンクのようなところに呼ばれたそうである。いろんな分野の人が集まって、廃棄した放射線物質の危険性がなくなるまで、その場所は危険だから近づくなというメッセージを何万年も先の子孫に伝えるにはどうしたらいいか、というSFのような(しかし切実な)問題について議論したのだそうである。
「ここは危険だ」というメッセージをどんな言語(あるいは記号)で記すべきかという困難とともに、それを何に記すかという困難もあった。デジタルなんて問題にならない。たとえ10万年保つメディアに記録したとしても、10万年後の子孫がそれを読めるとは限らない(技術文明が進歩する、それどころか現状維持する保証すらないから)。紙や木はもちろんダメだし、金属だって腐食する。結局のところ、巨大な石に彫るしかないという結論になった。なんだ、それなら古代文明と一緒じゃないか、私たちの誇る高度な科学技術とは、何万年という時間の前には何て無力なんだろう。しかもその何万年すら、地球や宇宙の年齢から見たらほんの一瞬のような時間なのだ。
私たち(「土」的存在)の生きるスケールを遥かに超える広大な時空に「石」は繋がっている。現代人の多くは、石に神的な力を感じた古代人をバカにしているかもしれないが、石に崇高なものを感じるのは人間精神の基本であり、人類史におけるほんの一瞬のエビソードに過ぎないであろう「文明の進歩」などという幻によっては、ビクともしない心の働きなのである。