2024年6月1日、東洋大学で行われる藝術学関連学会連合のシンポジウムで発表する要旨です。http://geiren.org/news/2024/generative-ai.html
タイトル「人間とは何かとAIは問う」
生成系人工知能が生み出す文書やイメージを、熟練した人間が制作したそれらから、結果を見ただけで区別することはできるだろうか? 言い換えれば、機械による出力を知識や経験に基づく人間の手作業から決定的に見分ける「眼力」や「鑑識眼」といったものは、存在するのだろうか? もしそれが客観的なテストという意味なら、この問いに対する私の答えはノーである。
だがこのことは、人工知能が人類やその文明にとって深刻な危機だといったこととは、何の関係もない。AIがやがて人類に取って代わるという予言、あるいはそれが人類文明に深刻な脅威をもたらすことを懸念したり、その開発をしばらく中止すべきだといった主張が、人工知能開発に関わる人たちの中からも呟かれることがある。しかしそれは人工知能を過大に広告するためのプロモーションであり、哲学的には非現実的な妄想である。
ポイントは、そもそもなぜ機械と人間とを競合させなければならないのか? という問いである。なぜ機械と人間との間に、何らかの存在論的な区別を置かなければならないのか? 私たちは一体いつまで「人間にしかできず機械にはできないこと」を追い求める、果てしない競争へと追い立てられなければならないのか? これらの問いの方がよほど重要であると私は考える。
人工知能はその本質においては、20世紀以降の特殊な問題などではない。「人工知能的なもの」はテクノロジーの本質にずっと潜んでいた課題であり、それはいわば人類文明の初めから、そもそも知的処理の機械化という手続きそれ自体の中に、ずっと存在していた要因なのである。それが現在、迅速で莫大なデータ処理、神経ネットワークモデル、深層学習の実現といった技術的達成を通じて、たまたま人工知能という形で私たちの前に現前しているといったことなのである。その意味では人工知能とは新しいトピックではない。AIは、人間とはそもそもどういう存在であるのかを、新たな形で私たちに問いかけているのだと思う。
AIを人間にとっての脅威として恐れることも、逆にAIなんて単に新たな道具としてうまく使えばいいのだと割り切るような態度も、ともに的外れだと私は考えている。人工知能は私たちにとって敵でも味方でもなく、それは人間とは何かという根源的な問いを先鋭化された形で私たちに突きつけている。この問いの姿を見極めることが重要なのである。