【思文閣銀座「うつしの美学」で展示したテキスト】
「うつす」とは、たんに原作に似たものを作成する行為ではない。何かをうつそうとする時、私たちの注意はたしかに最初、形を模倣することへと向かう。けれども、いつまでもこの意識が強いままだと、手の動きは臆病で、ぎこちなくなる。うつすことへの執着が、うつすことを邪魔するのである。そこから脱するには、意識の拘束力を緩めることを学ばなければならない。直接的なコントロールを強めるのではなく、むしろ弱めることで、より高次のコントロールに到達する。原作を描いた手の運動の自在さへと、みずからのそれを沿わせてゆくような気持ち。それがうつすということではないだろうか。
機械的複製技術の普及とともに、「うつす」という行為に伴う感覚は、希薄になってきた。機械とはある意味で無邪気な存在であり、意識を持たず経験もしないので、その動きは臆病にも、ぎこちなくもならない。技術的な精度が向上するにしたがって、人間の手では到底なしえない正確な再現が可能になってゆく。そして現在の生成系人工知能は、出来上がった形を似せるばかりではなく、私たちの想像力のパターンすらも模倣し、あたかもオリジナルのような何か(たとえばレンブラントがかつて描かなかったレンブラント作品のようなもの)すら造り出すに至った。これは、AIによる「うつし」なのだろうか? それとも進化したコピーに過ぎないのだろうか?
現代人の多くは、何ごとによらず新規なものに強く反応する。他に似ていないもの、かつて無かったものに特別な価値を感じるように、条件づけられている。そうして「オリジナリティ」を称賛する反面、何かをうつしたものに対しては冷淡である。うつすことはたんなる反復でありコピーだと考える。だが、そもそもオリジナリティとは何か。それは、他に似ていないということではなく、「起源(オリジン)」となるという意味である。オリジナリティとはむしろうつされることを内包し、うつしを誘発する力のことだ。オリジナルの反対はコピーである。けれどもうつしはコピーではない。うつしはオリジナルに対立していない。
ヨーロッパにおいては十九世紀まで、芸術活動の本質とは自然の模倣(ミメーシス)であるというのが普通の考え方であった。日本でも近代以前においては「描く」ことと「うつす」こととはほぼ同義であった。だが一九世紀から二十世紀に入ると、過去を払拭して何かを新しく作り出すことに、過剰な価値が置かれるようになってしまった。言い換えれば、創造と模倣との関係をオリジナルとコピーとの関係に重ね合わせ、あたかも互いに対立するものであるかのように考え始めたのである。こうした芸術観においては、創造と模倣との本当の関係は理解できなくなる。原作とうつしとが、ともに実時間を生きながら互いを反映し合う様相が、見えなくなってしまうからである。
個性を重んじるべきだということには、誰も反対しない。けれども個性とはそもそも何だろうか? 「個性の表現」とは? それは各自が思い描いた夢をそのまま表に出すことではない。個性とははじめから自分の中に存在している特徴、「ありのままの私」といったものではないのである。なぜなら私的な空想や思考なんて、実はどれも似たり寄ったりだからだ。個性とはむしろ、ありのままの自分を捨てて、何か他のものになろうとする時、そのプロセスの中から否応なく滲み出てくる何かである。成長するとは、何か他のものになろうとすることだ。うつしとはそうしたプロセスの呼び名なのである。
インターネット環境の中で、「ミーム」という言葉が再び広く知られるようになった。もともとはイギリスの動物学者リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』(一九七六年)で導入した概念であり、遺伝子(ジーン)と同じように、人間の思考や行動のパターンが伝達される情報単位を意味し、「文化的遺伝子」とも呼ばれた。メロディー、キャッチフレーズ、ファッション、料理のレシピから、大きくは思想や芸術、宗教までをも含む。ミームは遺伝子がモデルで、脳から脳へとコピーされると言われたが、実際には文化や行動のパターンが伝達されるプロセスは、コピーではなくむしろ「うつし」に近い。私たちは、自分が気に入ったものに同化したいと思う時、出来上がった姿だけを似せるのではなく、それが生み出される原理を内面化しようとする。好きなメロディーを口ずさむ時、それを歌っている歌手の気持ちになろうとする。
過去の時代におけるうつしの作例を観ることは、尽きせぬ興味をそそると共に、転じて自分自身を顧みる経験でもある。先人たちは、私たちのようにオリジナルとコピーとの単純な対立にとらわれてはいなかった。したがって、私たちとは異なった仕方でうつしを理解していただろうと想像される。ある作品が真筆かどうかということに関しても、科学的方法でそれを決定しようとするクソ真面目な現代人からみると、ずいぶん無頓着だったようだ。私たちが進歩したということだろうか? それはとても疑わしい。私たちはただ、うつしとその背景に広がる世界観を忘れてしまっただけではないのか。
最も原型的な複製の方法は、鋳型や版によって同じものをたくさん作り出すことである。コピーという観点から見れば、それはデジタル情報技術における複製の先行形態であるかのように思えるかもしれない。しかし本当はそうではない。鋳型や版は物理的存在であり、複製によって少しずつ摩滅する。したがってそこから作られたものも正確に同じものではない。けれどもこれは物理的複製の限界ではなく、むしろ可能性である。摩滅することは、版も複製物もそれを制作する身体と同じく、実時間を生きていることを意味している。それに対してデジタル情報は、特定の時空間にある仕方で現れているだけであり、情報自体はこの世界の中に存在しない。このこともデジタルの限界ではなく可能性である。
唐紙のうつしは印刷ではない、と「唐長」十一代の千田堅吉さんは語る。印刷では圧力をかけてイメージを転写するが、そんなことをしていたら四百年前の江戸時代の版木が今も使えるわけがない。唐紙の制作において、絵の具は本当は和紙に移りたくはない、板木の上にずっと留まっていたいのだそうだ。だから力を入れて押さえつけたりすると、かえってうまく移ってくれない。手はむしろ最小限の力で紙の上から添えるだけにする。人間の介入をできるだけ減らして、あとはモノ同士が勝手に動いてゆくに任せる。うつしにおいて人間が習得すべきことは、いかにして力を入れるかではなく、いかにして力を抜くかということなのかもしれない。
OpenAIはこの三月末、どんな人の声でも合成できる人工知能「Voice Engine」を発表した。わずか十五秒の音声サンプルさえあれば、特定の人の声で任意のテキストを読み上げさせることができるシステムだ。これを利用すると何ができるだろうか? たとえばある人に、本人が絶対言わないようなことを言わせたり、また亡くなった誰かに、かつてその人が一度も歌わなかった歌をうたわせたりできるだろう。目覚ましい技術的達成であると同時に、不気味なことであり、恐ろしいことでもある。たとえば対立する政治家の声を使ってナンセンスなことや卑猥な内容を拡散させれば、スキャンダルをでっち上げるよりもはるかに安上がりで強力な攻撃手段となるだろう。
声を偽装できる技術は、現実的脅威としてばかりではなく、より深いレベルにおいても私たちを不安にさせる。なぜなら声とは、ある人がまさにその人であることを、内側から私たちに教える何かだだからである。声は真理を告げ知らせるものとして聞こえる。友人や家族そっくりに作られたアンドロイドを、本物の人間と見間違うことは(少なくとも現段階では)ありえないが、声だけならば、私たちは騙されるかもしれない。あるいは騙されていると知っていても、なおもその人が語っているという思いを拭い去ることができないのではないか。視覚的な似姿はもっぱら外から来るが、声は外から来ると同時に心の内部からも響くからである。
音声サンプルに基づいて合成されたコピーに対して、純粋に機械的に合成された人声を、私たちはどのように経験するだろうか? それはたんにオリジナルに似ているというようなものではないし、また本物と聞き間違うというようなものでもない。その声は、オリジナル/コピーという対立の枠組とは、まったく別な領域で響いている。そうした声を生成させる試みには、どこか美術におけるうつしに通じるものがあると感じられる。
美学とはかならずしも、何が美しいかについての判断基準を持つこと(美意識)ではない。感性に訴える経験を、感性に訴えるがままに捉えようとする思考の試みである。その意味では、私たちが生きているこの時代は美学を忘却した時代とも言える。多くの人は日々更新される膨大な情報の流れに圧倒されて、どんな事柄に関しても、知識や立場に基づく判断ばかりが先行して、感性的な経験に言葉を与える余裕を失っている。芸術、アートに関わる言説ですら、新しさやインパクト、マーケット的な価値といった「情報」だけで構成されている。そんな中で「うつし」に注目することで、忙しない日常を少しスローダウンさせ、多少とも異なったやり方で現実に目を向けることができるのではないか。
そうした思いからこの展示を企画してみた。