2回ほど「科学」の話をした。
ほとんどの現代人にとって、「科学」はかつての宗教と同じものとして現れる。つまり「科学」は自由な知的探求というよりは、まず服従を要求する権威として経験される。学校の科学教育においてすでにそうである。何かが「科学的でない」と言うのは「間違っている」ということを意味するが、そのことを自分で吟味する必要はない。吟味はすでに他の(権威ある)人がしているからである。だからそのことを示す(権威ある)学術誌の論文を引用するだけでいい。
本来の科学的精神とは、批判に開かれた精神ということである。これほどまでに科学技術が社会や日常生活に浸透している世界では、人々は過去のいかなる時代よりも科学的精神が備わっているかというと、むしろその逆である。「科学」という名の下で行われる議論の多くは、単なる権威の調整である。つまりは政治である。真の科学者はそうではない。私が個人的に知る科学の研究者は本来の科学的精神を持つ人々なので、もちろん上のようなことは分かっているし、私がこんなふうに好き勝手を言っても、専門家でもないのに何を言うか、などとは決して言わない。
というのも真の科学者は、自分が科学のことなんて分かっていないことをよく知っているからである。哲学者も同様で、哲学のことなんてよく分かっていない。だから(職業的な意味では)専門家でない人から思いもかけない意見を聞くと、もしかしたらそうかもしれない、と考えこむことがよくある。そして何よりも、そうした意見を面白がることができる。ハンパな専門家は素人が変なことを言うとそれを面白がったりする余裕がなく、無視したり馬鹿にしたりする。それが、その人が知識人としてニセモノである証拠である。
さて、そもそも科学、科学者とは何なのだろうか? 科学とはサイエンスの訳語である。日本語の「科学」は普通は自然科学を意味するが、英語のscienceにはそうした意味以外に、「知」という広い意味がある。それはその由来が、ラテン語で「知」一般を意味するscientia(スキエンティア)という語に遡るからである。その意味で、scienceは古い概念なのであるが、scientistという語は新しい。それは産業革命時代のイギリスで、科学が生産活動や国力と密接に結びつきつつあるという社会的文脈の中で作られた造語である。
「科学者 scientist」という言葉は、ケンブリッジのトリニティ・カレッジで教えていたウィリアム・ヒューエル(Wiliam Whewell, 1794-1866)という人が造語し、1833年に初めて使用した。この言葉には、単なる自然の探究者という意味に加えて、その活動が新たな発明発見によって生産活動を促進し、したがって政治的に重要であり、人類の進歩に寄与するという意味が加わった。そういう仕事に従事する人が「科学者」である。したがって厳密に言えば、ニュートンは科学者ではない。だって17世紀にはscientistなんて概念はなかったのだからね。それではニュートンは何者かというと、「自然哲学者 natural philosopher」という呼び名の方が相応しい。周知のようにニュートンは自然哲学以外にもいろんなことをしているが。
Natural philosopher, naturalist, savant, 等々の言葉では意味が広すぎて、新たに登場してきた職業的な自然研究者を呼ぶのに適していないと考えたヒューエルは、scienceからscientistという言葉を造った。当時の知識人にとって、ぎこちない造語として響いたのではないかと想像される。だが時代が降って「科学者」が知識人のモデルのようになると、私たちは過去を全てこの概念を通して理解するようになる。こんな概念の存在しなかった18世紀以前の自然研究をすべて、現在私たちが立つ進歩の「最先端」へと至る原始的な段階として、先人として一応リスペクトはするものの、基本的には上から目線で眺める傲慢さを身につけているのである。
ところでヒューエル自身は何者かというと、やはり過渡期の人なので、彼自身現代と同じ意味で「科学者」であるとは言い難い。確かに自然研究者でもあったが、アングリカン・チャーチの牧師で神学者でもあり、大学では鉱物学や道徳哲学を教えていたという。現代ではこんな人はあまりいないかもしれないが、19世紀前半までは珍しくなかった。カントだって、今は多くの人が「哲学者」(つまり現代における専門化された、人文科学の一分野としての哲学の研究者)だと思っているが、それは後世の人が彼の批判哲学ばかりを取り上げるからである。カントは力学、自然地理学、人間学(文化人類学みたいな世界知)など多様な論文を書き講義をしていたし、リスボン大地震に衝撃を受けて地震の原因を究明する論文も書いた(今から見るとトンデモ仮説に見えるけどね)。
啓蒙思想家としてカントも人類の進歩を信じていたが、それは現代の私たちが信じている科学やテクノロジーの進歩と同じものではない。カントが考えていたのは認識と道徳性の進歩である。私たちの言う「科学」、つまり自然の認識も進歩するが、それは道徳性の向上を反映するものであるかぎりにおいて意味がある。それに比べると現代の私たちは、本当は人類の進歩など信じていないのかもしれない。科学とテクノロジーの進歩によって、生活は便利になり幸福は増進されるかもしれないが、それを享受する人間そのものは変わらないと考えているみたいだからである。