先週はお金の話をした。お金の価値の源泉は貴金属のような物質的実体であるという感覚は、ほとんど直感的(エステティック)なものであり、自明であるかのように感じられる。貨幣が実は債務と債権の記録であり、その債務が履行されるという「信用」を前提とした一種の情報であるということを理解しても、この直感は残り続ける。そして私たちは、あたかもお金そのものに価値があるかのように振る舞うことをやめない。それはちょうど、地球が太陽の周りを回っていることを頭では知っていても、やはり朝になると東から陽が昇り空を動いているように見えるという感覚は変わらず、また言葉でも「陽が昇る」と言い続けることに似ている。
いくら知識を得ても感覚や行動が変わらないとしたら、知識は無駄なのかというと決してそんなことはない。太陽が動いているように見えているが本当は自分が動いているのだと知ることは重要である。ロケットを作る時には感覚ではなく知識に基づいて設計しなければうまくいかないからである。それと同様に、大規模な経済的計画を立てる時には貨幣を実体としてではなく情報として理解しなければうまくいかない。自分の小遣いや家計のような限定された範囲ならお金を貴金属だと考えてもあまり問題はないが、国家の財政政策を考える場合には、そうした直感を延長すると致命的な誤りになる。
感覚が我々を誤らせるだけで、しかも知識によって訂正もできないとしたら、そもそも感覚は何のためにあるのだろうか。これは美学の課題である。感覚は誤らせるとデカルトは考えたが、私はむしろスピノザのように、感覚には誤りというものはないと考える。私たちが現実世界とは合致しない(その意味で「誤った」)感覚を抱くのは、なぜそんな感覚が生じるのかという理由を私たちが知らないためである。つまり問題は誤謬ではなく、むしろ無知なのである。その無知はどこに起因するかというと、私たちの身体がそもそも限定されたものだからである。
だから、本当は〇〇であることが分かっているのにどうしても△△に見える、という感覚は、単純に「誤っている」のではなくて、私たちの身体がそういう錯覚を作り出していることを意味する。つまり、感覚は私たちを欺いているのではなく、むしろ「私たちの身体は〇〇を△△として表象するような仕組みを持っている」ということを教えてくれているのである。ただし、感覚のこの「教え」を理解するためには、世界は本当は〇〇であるという理性的認識を持っていなければならない。だから正しい知識を持つことは、感覚を反省的なものにするために必要なのである。知識と感覚は相反するのではなく、知識によって感覚は鍛えられると考えるべきである。
もしも、何かを知ったために感覚が鈍くなった、つまり知識が感覚の力や想像力を阻害すると思われるとしたら、それはその知識が本当は知識ではなくて、知識の姿をした粗野な感覚にすぎないということを意味する。科学的知識が夢やファンタジーを駆逐したというような定型句は大抵そんなことだ。昔は月に兎がいると想像していたのに、実際にロケットで月に行ったみたらただの岩石だった、というようなことは、知識と想像力との関係について本当は何も重要なことを言っていない。「月はただの岩石」などというのは科学的知識でも何でもなくて、感覚的印象に基づいた非常に程度の低い想像なのである。
それに比べたら、貨幣が実は債務の記録であるという知識は、それに対応する直感に置き換えにくいので、そのことについてよく考え、それでもお金はそれ自体が価値を持つ実体であるかのように見えるという自分の直感と突き合わせてみることから、学ぶことができる。自分の身体の周りに展開されるミクロな動きと、身体的には直感できないマクロな運動、日常生活や人生の時間のスケールで測ることのできる時間内での現象と、地質学的、宇宙論的な時間スケールにおける現象──それらは確かに何らかの仕方で繋がっているはずなのに、まったく別な論理で作動しているように思える。そこに驚異の念を持つのが哲学である。
この意味における哲学とは、専門的な一学科としてのそれではなく、経済についての知識、自然についての知識、この世界についてのすべての知識をその始まりにおいて駆動する力のことである。
今日の講義では銀行の話をします。