こういう三題噺のようなテーマを掲げた学会(第42回日本記号学会大会)が、2022年9月17-18日、追手門学院大学総持寺キャンパスで開催された。ぼくはこの学会の理事なので、17日昼の理事会・編集委員会にも出席した。また同日夕方には「人新世の記号論」という個人研究発表もした。この内容については、記号学会の機関紙『セミオトポス』にも載るかもしれないので(査読で落とされるかもしれないが)ここには公表しない。
2日目にはこの3つのテーマに応じて3つのシンポジウムが企画された。だがこの「三題噺」が繋がっていないという指摘が、2日目の全体討議の時に、室井尚さんから指摘された。「モビリティ」といっても話題が「観光」に傾きすぎているし、次のセッションにおいては各報告者の話が「人新世」というテーマに関わる必然性が希薄だし、また「ケア」に肯定的な意味を与えることにも同意できない。そして何よりもこの3つのテーマをつなぐストーリーが見えない、と。
それに対して大会実行委員長の松谷容作さんが、3つのテーマに繋がりがないことは指摘の通りだが、あえてそうすることによって、そのことに不満を持つ(室井尚さんのような)会員からツッコミが入り、議論が活発化するのでは(松谷さん自身の言い方では「ケンカになるのでは」)ないかと思ったという、苦し紛れというか、ヤケクソのような回答があった。だがこれは案外にウケ、質問した室井さん自身も笑っていた。
苦し紛れかつヤケクソだった(そしてそれをいかにも意図したことのように言った)ことがよかった、とぼくは思う。なぜかというと、学問的コミュニケーションといってもそこには、「売り言葉に買い言葉」みたいな側面があるからだ。それがなかったら知的世界は死んでしまう。そんないい加減な、と思う人もいるかもしれないが、そうなのだ。過去の学問の歴史を見ても、19世紀以降はプログラムとか整合性の意識が拡大してくるけど、ぼくが主に読んでいる17-18世紀くらいの初期近代においては、学問といえども結構「切ったり張ったり」の世界なのである。西洋でも日本でも。
なぜヤケクソがいいかというと、追い詰められた時に人間は、その生き物としての動物的直観のようなパワーが知的な言説の中に還流してくることがあるからである。
ぼくは「人新世」について話したが、この「人新世」だってヤケクソの思いつきみたいなところがある。そこの部分は面白いと感じるのだが、今は「人新世」が何か定説というかドグマのように流通しているのが、なんとも居心地が悪い。それが「科学」という装いで来るからよけいに気持ちが悪い。
科学は自由な思考なのだから、明白な証拠を突きつけてドグマに抵抗し、真理はこうなのだ!と宣言するパフォーマティブな力がある。そうやってあえて定説を疑ってみる、という振る舞いに人が共感するところに、科学の民主主義的な側面がある。けれども現代の科学は、むしろいかにして定説を作るかを目指しており、それによって権威を得て政治や資本と結びつくことを目的としているように見える。17-18世紀の世界で言えば、これは科学ではなく宗教の振る舞いである。
「モビリティ」にしても「人新世」にしても「ケア」にしても、それら現代的キーワードが持つ普通の意味、メディア的に受け入れられている意味に根本的な疑問を突きつける、というところに学問的思考の意味がある。そうでなければ、私たちはそうしたマジックワードの呪力に翻弄されるがままだからだ。記号学会は、そうした疑問を提起する場であってほしい。