ぼくの周囲で、コロナで倒れたり死んだりした人は、幸い直接には一人も知らないのだけど、一年半に及ぶコロナ対策が原因で、体調を崩したり、鬱状態になったり、人生の進路を狂わされてしまった人たちは、おびただしく見てきた。陰謀論にハマってしまった若者もいる。そこまで行かなくても、もういい加減にしてくれと思いつつ、その気持ちを誰に訴えればいいのか分からず、強いストレスを感じながら、しかもそんな弱音を吐いてはいけないというプレッシャーに苛まれながら日常生活を送っている人たちがたくさんいる。
テレビや新聞などマスメディアの情報が何となく信用できないという感覚は、潜在的にはかなり広がってきたと思えるが、それでは何を信用したらいいのか、ネットではいろんな人がいろんな意見を言っているだけで、いったい誰を信じていいか分からない、特にウィルスとか、感染症、ワクチンなどについての情報は高度な専門的知識を要求するので、自分では判断できない、専門家たちが人によって正反対の見解を持っていたりしたら、一体どうすればいいのか。
ぼくは以前、ブログか講義だったかで、自分には問題を判断する客観的な根拠がなくても、誰が正しいことを言っているかは美学を勉強すれば分かるようになります、などと言った(らしい)ので、それはどういう意味なのですか? ということを、先日ある学生から質問された。
それは、たぶんその場の思いつきで言ったような気もするのだが、でも、思いつきだからといって、根拠がないわけでは決してないのである。美学というのは「直感」を重んじる学問だから、今のように知識や情報が過剰になって多くの人が道に迷っているような時代には、ある意味重要ではないかと思ったので、言ったのではないかと思う。
より具体的に言うと、ウィルスや感染対策やワクチンについて、判断する客観的な根拠を、たとえ自分自身は持っていなくても、ある考えや何らかの指針を語っている専門家や指導的立場の人に、ひとりの人間として向かい合った時、信頼できそうかどうか、この人の言うことを聞いても大丈夫だと自分の身体が言っているかどうか、ということによって判断するしかないのだとぼくは思う。
その際、その人がテレビに出てる有名人だとか、〇〇大学教授だとか、自分の知らない膨大な知識を持っているとか、がんばって理屈を追うといかにも正しそうに思えるとか、そんなことは一切考慮しなくてもいい。言っている主張とか内容は括弧に入れておいて、まずはその人が全体として信頼できるかどうかで判断すればいいのである。
そうしたことは、昔の文字ベースのメディアと違い、多くの話し手を動画として確認できる今の状況では、むしろやりやすくなっているはずである。ネットとは、私たちが生き物として本来備えている直感力を、存分に活用できる環境なのだ。話の内容ではなく話し方、眼差し、ちょっとした無意識の仕草、突然何かを聞かれた時の瞬時の反応、さらには意識下の微小な表情変化(マイクロ・エクスプレッション)のような手がかりから、私たちは相手が信頼できるかどうかを、判断できるのである。
もちろん、そうしたやり方で100%安心安全な情報収集ができるわけではない。自分では直感的に判断していると思っても、私たちは無意識のうちに何らかの刷り込みや先入観に大きく左右されているかもしれないし、また語り手の中には、並の直感力では識別できない仕方で表情を偽装できる詐欺師も、いないとはかぎらない。
それでも基本的には、人間を離れた単なる情報を元に判断するよりも、情報をそれを発する「人間」や「人格」を基にして判断した方が、全体としては間違いが少ないのではないか、とぼくは思うのである。というより、現代のように様々な専門的知識が氾濫し、全ての人がそれらを全て自分で判断して決めなさいという無理筋な「民主主義」が押し付けらている時代では、「人間」を起点にして様々なことを判断していく以外ないのではないだろうか、と。