2016年にノーベル賞を受賞した大隅良典先生と「オートファジー」の研究をしてこられた細胞生物学者の吉森保さんと「無駄の研究」という対談をした。これはKYOTO EXPERIMENT(京都国際舞台芸術祭)のプログラムのひとつとして行われたイベントである。最初はロームシアター京都で普通に行われる公開対談として計画されていたが、京都にも緊急事態宣言が発令されたことを受け、YouTubeによるオンライン対談となった。しかしリアルタイムの配信のみで記録は非公開となっているため、内容が知りたいという人がいるので、ぼくが話した部分について、必ずしも忠実な記録ではないが、思い出しながらここに少しメモしておきたい。
現代社会はどんなことでも効率が重視され、誰もが「費用対効果」などというようなことを言い出す。「無駄」がひたすら削減され排除される、それはちょっと行き過ぎではないか、とは多くの人が感じている。しかしそうした一般的傾向に対して「人生には無駄も必要なんだよ」というようなことをただ言うだけでは、牧歌的でロマンチックな無駄賛美にしかならないので、もう少し踏み込んで考えることが重要ではないか、と言うのがぼくの基本的なスタンスである。
そもそも「無駄」とはどういう言葉なのか? 誰もが使う日常語ではあるけど、その意味を正確に知っている人は多くない。「駄」とは牛馬に担わせる荷物のことである。だから「駄馬」とは、荷物運搬用の馬という意味だ。けれどもそうした中立的な意味の他に、「駄」には「価値のない」という意味が加わる。「駄作」とか、「駄洒落」とかね。それは、荷物用の馬が、乗馬用の馬よりも低く見られていたからである。つまり乗馬できる方が上等の馬なのだけど、こいつは乗馬に使えないから、荷物運ばせるしかないよね、というようなことである。馬にとっては、いずれにしても人間に使われるのだから、そもそも余計なお世話というものだが。
そしてその「駄馬」に、宿場Aから宿場Bまで荷物を運ばせて、今度はBからAに戻って来る時、ちょうど戻りの荷物があれば効率がいいけど、たまたま適当な荷物がなかった時は、何も担わずに馬だけを返さなければならない。それが「無駄」ということなのである。人も乗らず荷物も積まずに馬だけを歩かせるなんてもったいないじゃないかということだ。つまり「無駄」というのは、人間の側の都合であって、馬の側からすれば、「無駄」は楽であり自由な状態ということに他ならないのである。さらに何も載せていない馬は、どこかで急に荷役が必要になった時、すぐに使うこともできる。
つまり「無駄」とは特定のものの見方を反映するに過ぎないのであって、どんなことであれ「無駄」な状態というのが客観的に存在するわけではないのである。
たとえば日本ではこの30年ばかり、土木工事等の公共事業、医療施設、公務員等々を「無駄」だとしてその規模や数を削減する政策が幅を利かせてきた。確かにそれらは、地震や台風のような災害もなく、コロナのような感染症も起こらない日常の中では「無駄」に見えたかもしれない。しかし日本はそもそも自然災害大国であり、感染症だっていつ襲ってくるかわからない。平常時においてはあまり利用されないかもしれない道路や、河川の堤防、医療設備の剰余や公務員の数は、長い目で見れば極めて必要不可欠なものなのである。大切なのは「無駄」を削減すべきものと見るのではなく、必要な「余裕」と考えることである。
吉森さんとのやりとりで面白かったのは、無駄にも二種類あるのではないか、という話であった。つまり本質的な意味での「無駄」それ自体と、やがては役に立つかもしれない「無駄」である。大隈先生がオートファジーの研究を始めたときには、世間的にはほとんど注目されなかった。しかし先生はそんなことに頓着せず、ひたすら細胞が何をしているのか知りたくて研究を進めた。だがオートファジーが老化を抑止したり病気の治療に役立つかもしれないという可能性が見えてくると、とたんに世間は関心を示しはじめ、ついにはノーベル賞ということになった。ノーベル賞は真理の発見に対して与えられるのではなく、世の中に対するインパクトの大きさに対して与えられるのである。
科学はその本質においては、ひたすら自然を探究し真理を知りたいという活動なのだが、その結果として、国家や人類のために役立つ成果に結びつくこともある。最初から「役に立つ」ことを目的に考えると、それに結びつかない研究活動は「無駄」とみなされる。現代では科学者自身ですら、役に立たないような研究はすべきでないと考える人も少なくない。しかし科学とは本当はそんなことには無関係で、本来の意味での「無駄」、つまり荷を背負うことなくのんびり歩いている馬なのである。これが本質的な意味での「無駄」なのだが、これを世知辛い現代に生きている全ての人に理解せよ、というのは無理かもしれない。それで「今は無駄に見えるかもしれないがいつかは役立つかもしれない」と言っておくことも必要ではないかということだ。
哲学も本来の科学と同じく真理だけが重要だから、それは荷物を背負わずひたすらトコトコ歩く馬であり、本質的でコアな意味における「無駄」である。だがこれはいわば無駄の「奥の院」であって、世間の人々すべてに向かって、それどころか哲学や科学に何らかの仕方で触れている人々ですら、そのすべてに向かって理解しなさいといっても多分無理なのである。一般には、無駄に見えるかもしれないがいつか何らかの仕方で役に立つこともあるのだ、と言っておく方がいい。それはいわば「念仏」みたいな、「無駄」における大乗仏教みたいなものかもしれない。でも、そうした万人向けの「無駄」の意味に飽きたらない人も時々は必ず出てくるから、そういう人には哲学や科学の、本当の「無駄」の世界においでと誘うのである。本質的な「無駄」の領域は絶対に確保しておかねばならない。なぜなら本質的な「無駄」がなければ、方便としての「無駄」もないのだから。