陰謀論もウィルスと同じように広がり、またウィルスと同じように、陰謀論から身を守ることのできる確実なワクチンというものは存在しない。
事実を直視しなさい!と言っても、コロナ騒動にせよアメリカ大統領選挙にせよ、私たちのほとんどが見ている「事実」というのは、みずから現場に赴いて目の当たりにする現実ではない。メディアによって媒介された情報である。私たちが「あなたは事実から目を逸らしている」と言っても、陰謀論者はその「事実」を伝えるメディアが操作されていると主張するのだから堂々巡りであり、彼らを議論で説得することは不可能なのである。
陰謀論は理屈でない。むしろ感情である。だから合理的な議論の対象というよりは、美学の対象なのである。美学は陰謀論に対するワクチンにはならないけれども、一種の鎮静剤くらいにはなる。なぜなら美学とは、「事実」を問題にするのではなく、直接的な感覚経験、「直感」を問題にする態度だからだ。事実をカッコに入れた上で、陰謀論を一つの心の状態として考えることができるからである。
陰謀論が拡散するのは、それが分かりやすく、面白く、元気にしてくれるからである。自分はお金もなく、人にも軽んじられ、将来の希望も持てない。何で世の中はこうなっているのか知ろうとしても、社会は複雑すぎて、誰を信じていいか分からない。政治家も、テレビに出てくる有名人も専門家も、結局すべて成功者であり、自分の味方ではない。みんなウソをついているように思える。そんな時、あなたの気持ちはよく分かる、実はすべてが◯◯による策略なのだ、と説明してくれる「物語」と出会ったら、どんな気持ちになるか。
陰謀論を信じることは、ひとつの支配的「事実」を疑い、それとは反対の「事実」に依拠することであり、心の状態としては同等である。アメリカ大統領選挙の投票において不正があったと信じる人も、不正などあり得ないと信じる人も、それを本当に自分の眼で確認したわけではないのだから、似たようなものである。それに対して誰もが否定できないことは、投票者のうちトランプ大統領を支持したアメリカ国民が少なくとも半数近くはいたということである。これは直接目の当たりにしていなくても、まず疑いようのない事実である。
彼ら彼女らのほとんどは概ね理性的で非暴力的な人々であり、単純な陰謀論を信じているわけでもない。7,300万人というのは、全員がフェイクニュースに騙され煽動されているだけ、と考えるにはあまりに大きな数である。その背後には、大きな歴史上の選択が共有されていることは確実である。その選択を正確な知識として自覚している人の数は必ずしも多くないかもしれないが、漠然とした感情としては広く共有されている。陰謀論に走る人々はその中の極端な一部に過ぎない。
一方、もしもあなたがそうした陰謀論における「首謀者」であったとしたら、自己利益を拡大するために何をするだろうか、と想像してみてほしい。小説じみた「陰謀」はとてもリスクが高い。どこかでバレてしまったら終わりだからである。バレないように口封じをして回るのも、さらなるリスクを生み出すし、とてもコストがかかる。それよりもあなたは、バレても大丈夫な方法をとった方がいい。バレても大丈夫な方法というのは、あなたの利益を最大化するような行動を、人々が自発的に取るような世界を作り出すことである。そのために人のためになるようなこともして、でも結局は自分が一番儲かるような仕組みを作り出せばいいわけだ。そしてそれを世界の「ノーマル」にしてしまえばいい。
それでも、自分たちは貧困化され割を喰ってるのではないかと自覚し、この世界のあり方は根本的におかしいのではないか、と不満を持つ人々が出てくるかもしれない。そうした人々が増え、連帯してあなたに反逆するようになると困る。そのために「陰謀論」のタネを撒いておくのである。不安や不満から陰謀論に走る人々は、あなたが作り出した「ノーマル」な世界では、エキセントリックな奴らというレッテルを貼れる。それによって支配者としてのあなたに対する、広範囲の疑惑や不満それ自体をもエキセントリックなものに見せることができる。ちょうど暴漢を雇って平和的なデモに紛れ込ませ、それによってデモの主張自体を暴力的なものと印象付けるのと同じ手法である。
美学的な観点から考えると、陰謀論とはそういうものである。つまりそれは氷山の一角であって、それ自体が問題であるわけではない。陰謀論それ自体が、強いて言えば「陰謀」の一部なのである。本当の問題は、陰謀論の背後に広がる集団的な感情であり、そうした感情を生み出した歴史のうねりなのである。