◉ れいわTANUKI問答ポンポコ 003 ◉
【Q1】先生、私は長年「食べる」ということに取り憑かれてきてまして、その反面、食べないこと、「絶食」といったことにもとらわれてきたのですが、最近、そもそも何も食べないでも人間は生きられるという本(秋山佳胤、森美智代、山田鷹夫『食べない人たち──「不食」が人を健康にする』, 2014)を読んで、そんなことが本当に可能なのか、という思いに取り憑かれています。人間は本当に、食べないでも生きていけるのでしょうか。そうだとすると、そうすることは人間として正しいのでしょうか?
【A1】人間が食べないでも生きていけるのかどうか、それはぼくには分かりません。ぼく自身はやったことがないので。そうしたことを主張してきた人は、これまでも世界にたくさんおられるので、すべてをインチキやトリックであると断定することはできないし、またそんな真相暴露みたいなことをしても、あまり意味があるとも思えません。
『ダイアテキスト』という批評雑誌の編集長をしていた時、その第8号の連載記事で、甲田光雄さんというお医者さんに、「食べないことを味わう」というインタヴューをしました。甲田さんは断食療法で有名な方でしたが、インタヴューの最後で、人間はやがて、何も食べないでも生きられる生命体へと進化する、というような話をうかがいました。
「断食」というのは一種の療法であって、それは食べないことを意味するのではなく、意図的に食べることを制限することによって、身体に様々な改善をもたらすテクニックとして研究されているものです。しかし甲田さんと話して印象に残ったのは、断食はガマンして行ってはならず、ガマンするくらいなら、断食そのものを止めた方がいい、という言葉でした。
ということはつまり、断食それ自体はいずれ食べる生活に復帰するプログラムではあるのだが、それを行なっている時のリアルタイムの心構えは、食べないことを単なる手段として理解するのではなく、むしろ食べないで生きること、つまり断食ではなく「不食」という理想が、その根底にあるという印象を持ちました。
心の持ち方としては、ある程度共感できなくもないし、個人が自分の生活改善のためにやるのであれば、それが間違っていると言うつもりはありません。
けれども、それが人間が普遍的に向かうべき目標だとは思わないし、また人類文明の困難を解決する手段であるとは、全く思っていません。
それはなぜかと言われると、まず第一に、絶食や不食によって健康やよりよい生活が実現できると主張している人たちは、主として先進国のインテリの人たちだからです。つまり、やろうと思えば豊かな食生活を送る能力のある人たちだけが、絶食や不食を唱えているということです。
もしも人間が食べなくても健康に生きていけるのなら、飢饉や内戦による飢餓で十分に食べることができない人たちも、健康で生きられることになります。しかし、彼らは栄養失調に苦しんでおり、極めて不健康です。それを精神的な態度変更によって解決することは不可能だと思うし、絶食や不食を提唱している人たちも、そうした人々に対して自説を主張しようとは、たぶん思わないだろうと思います。
つまり、「食べない」という選択肢は、「食べようと思えば食べられる」という基本的状況の上につくれらた、一種の贅沢品だと言うことです。だからといって、それが間違っていると非難するつもりはありません。贅沢なライフスタイルを享受できることは、その社会の生産力を示す素晴らしいことだと思うからです。
第二に、もしも食べなくても健康に生きていけることが生命レベルの真理だとしたら、どうして人間以外のほとんどの生物はその選択肢を取らなかったのか? という疑問があります。生物にとって、食物を見つけることは生きるためのエネルギーを投入する第一の目標です。生命は基本的に無駄なことはしないので、食物摂取が生きるために必要ないなら、最初からそうした方向には進化しなかったのではないだろうか、と思うのです。
そういうわけで、食べなくても生きることは可能かもしれないし、もしかしたらそれは快適な生を約束するのかもしれない。そのことは否定しないけれど、それは消費社会の一つのソフィスティケイトされた趣味に他ならないので、それを本気で人間の未来とか人類の運命とかいう文脈で語るのは、大袈裟であり間違っていると考えています。
【Q2】前の質問と関係するのですが、食べないことを主張する人たちは大体、食べないことによって老化が進行せず、いつまでも若くいられるということをアピールされているように思います。漫画やドラマなどでも、老人がその知識や経験を持ったまま、若い身体の中に入るというような設定がありますが、もし本当にそうしたことが実現したら、人生にとってそれは理想的なことなのでしょうか?
【A2】それは違います。根本的に間違っています。
なぜか。若者が知識や経験がなく、愚かな間違いを犯してしまうのは、偶然的なことではなくて、それが「若い」ということの本質だからです。しかし、若者でもその失敗から学ぶ能力はあり、若いからといって必ずしも愚かであるわけではありません。
一方、老人も知識や経験が蓄積するからおしなべて賢明かというと、それもまったく違います。いくら長く生きていても、成長を放棄した人間は、愚かなまま年老いてゆきます。
老人の知性を持って若い身体を持つというのは、実は古代から存在する神話的なテーマのひとつなのですが、これは何世紀も変わらない、人間の変わらない愚かさを示す事例の一つだと思います。
どういう愚かさかと言うと、それは「成長」ということの意味を理解しない愚かさです。つまり「時間」というものを、自分の生の中に受け入れることができないのです。しかしこれはもしかすると、人類文明それ自体にビルトインされている愚かさなのかもしれません。だとすれば、人類はこの愚かさを抱いたまま、滅んでゆくのでしょう。
そう言うと絶望的に思えるかもしれませんが、それを知ることによって、わずかに離れた場所に身を置くことができます。そのことは年齢に関係ありません。それが思考というものであり、それだけが希望です。