「美学特講」雑談03
【Q】
志村けんさんが亡くなられた時の小池都知事の発言「‥‥悲しみとコロナウィルスの危険性について、しっかりメッセージを皆さんに届けてくださったという、最後の功績も大変大きいものがあると思っています。」が物議を醸しました。問題となったのは「最後の功績」という表現で、批判的なコメントの多くは「言いたいことは分かるけど言葉が悪い」といった内容でした。私も違和感を覚えました。
これに似た違和感を、新型ウィルスに対してよく使われる「正しく怖がる」という表現に対しても持ちます。「正しく怖がる」という言葉を自分のなかでいまだに消化できずにいるのですが、果たして怖がることに「正しさ」はあるかと疑問に感じています。おそらく、過度な恐怖心を持つべきではないということを言いたいのだろうと思うのですが、先生は「正しく怖がる」とはどのようなことだとお考えでしょうか?
【A】
政治と芸術はよく似ています。それは、しばしば内容(メッセージ)よりも言い方(表現)が決定的に重要となる点においてです。いくら正しいことを言ったつもりでも、言い方を間違えたらすべてがブチ壊しになります。なぜなら政治においても芸術においても、言い方/表現こそが、より本質的な内容/メッセージに他ならないからです。
したがって政治においても芸術においても、たんなる「失言」「失敗」というのはありません。芸術家が「自分の作品は表現は最低だけど、訴えたいことは分かるよね?」などと弁解しても、絶対に通用しませんよね。作品が最低だったなら、彼が言いたいことも最低なのです。それ以前にそんな弁解をすること自体、作り手として最低ですけどね。それと同じように、政治家は「失言」を咎められた時によく、「言い方が不適切だったかもしれない、真意が伝わらなかった」等と弁解しますが、思わず漏らした「言い方」こそが、その政治家の「真意」なのです。だから勇気を持って「私の考えは間違っていた」と認める政治家は信頼されますが、「言い方が悪かった」「伝わらなかった(あたかも聴く方が勝手に誤解したとでも言いたげに)」と弁解する政治家は、本当にぶざまで、見るにたえません。
さて美学的な観点から見た時、問題となっている上の発言は何を表しているでしょうか。志村けんさんのような有名人がコロナウィルスの感染で亡くなったことによって、結果的に新型コロナ感染の危険性が広く知られるようになったことは事実です。しかしこれは比較の問題であって、コロナは新しい感染症であり、その危険性の度合いを多くの人はまだ評価できないので、こういう結果になるわけです。有名人が癌で亡くなっても、そのことで癌の危険性が広く知られるようになるということはありません。癌の危険性はすでに、誰もが多かれ少なかれ評価しているからです。
それはともかく、結果としてそうなったに過ぎないことを「最後の功績」と呼ぶ言い方は、なぜ気持ちが悪いのか。それは、人の死を何か別な目的のために役立つ「手段」として利用していることが分かるからです。「功績」だから表面的には褒めているように聞こえるけど、実は「いい時に、よく死んでくれた」と言っているのです。「いい」というのは政治家にとって都合がいいということです。危機を煽ることは多くの場合、為政者によって権力を行使する手段となり、人々に不安が広がることは自分に支持を集めるチャンスになります。
このように言うと、政治家とは腹黒い大悪党のように思う人もいるかもしれませんが、実はそうでないことが現代的な政治の困難さなのです。かつては権謀術数に長けた悪辣な政治家もいましたが、現代の政治家は概ね(とりわけ二世、三世のような人たちは)、ナイーブ(世間知らず)です。知識も不十分で、明確なビジョンもなく、信念のために命をかける覚悟もありません。しかし、政権の維持や支持の獲得のためにはどう振る舞えばいいのかという経験的な知識だけは発達しています。そう言うと絶望的な気持ちになる人もいるかもしれませんが、所詮は政治家なんてその程度のものだと思って、彼らがそうした行動動機に従っても、最終的には国民のためになるような政策を行うように、私たちがコントロールしてゆけばいいのです。政治家に導いてもらうのではなく、みんなで彼らをうまく操るという意識を発展させることが大切です。
少し話が逸れましたが、質問の「正しく怖がる」という言い方については、どう考えたらいいでしょうか。「正しく怖がる」あるいは「正しくおそれる」といった言い方は、福島原発事故以後の放射能に対する不安という文脈でも使われてきたものですが、私の知るかぎりその典拠は、寺田寅彦が昭和十年に書いた短いエッセイ「小爆発二件」だと思います。この文章は青空文庫ですぐに読めるので、関心のある人は全文を読んでみてください。
「爆発」とあるのは、同年8月に起こった浅間山の爆発のことです。たまたま安全な場所から下山してきた登山者が少しも怖がっていないのを見て、「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた。」とあります。つまり危険性を適切に評価し、それに対応した度合いの怖れを持つことは困難である、という意味だと思います。質問者も言われているように、怖れとは本来制御することが難しい感情なので、「正当」ではなく「正しい」という言葉で形容するには違和感があります。
「正当にこわがる」であれば、その「正当」とは「客観的に適切」という程度の意味なので、新型コロナを怖がるにしても、そのリスクを客観的な数値として、自分が交通事故に遭うリスク、癌になるリスク等々、生きている限り避けられない様々な他のリスクと比較して、その程度のものとしておそれる、という理解になるでしょう。これにはそれほど違和感を覚えないのではないでしょうか。
それに対して「正しく怖がる」という表現に伴う気持ちの悪さは、そこに、本来コントロールしにくいはずの恐れの度合いの「正しさ」を、誰かが外から指定し、それに従うべきであるかのような含意があるからではないでしょうか。そもそも寺田寅彦が言ったのは、恐れの適正な度合いは人間にはなかなか分からないのだ、ということだったのに、あたかもどこかに正しい恐れの度合いがあり、それを指定できるのは私であり、それに従わない者は愚かである、といったニュアンスが、この言い方の背後には感じられます。
つまりこの「正しさ」には何でも入るということです。したがって「正しく怖れる」という表現もまた、それによって人々を支配しようとする人間にとっては、使い勝手のいい表現であり、だから使われているのではないかと思います。