以下のテキストは、また3年間会長を続けることになった美学会のことを意識して書いたものではありますが、あくまでぼくの個人的所感であり、学会全体の立場を表明するものではありません(なんてことをいちいち断らなきゃいけないのも今の時代の窮屈さだし、断ったからといって別に内容の印象が変わるわけでもないのだけどね)。
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あいちトリエンナーレの「表現の不自由」展に起因する補助金停止問題について、美学会としても何か声明を出すべきだという意見が、会員の中から上がった。すでに芸術関係のいくつかの学会や団体から、文化庁・文部科学省に向けた声明や抗議が出ているので、芸術分野全般の研究をカバーする美学会としても何らかの意見表明を行うべきだという声が出るのは、当然であろう。
たしかに、文化事業のために交付を決定した補助金を、外部審査員に相談もせず議事録さえ作らずに中止決定するなんて、行政担当者としてのあまりの杜撰さに呆れるばかりである。
けれどもそれを国家権力による「表現の自由」の弾圧であるとか、事実上の検閲であるとして美学会の名のもとに糾弾し、その代表者として自分の名前を署名することを想像すると、何ともイヤ〜な気持ちが湧いてくるのが偽らざる所なのである。いや、そんな個人的心情は抑えて社会正義のために出すべきでは!と自分を鼓舞すると、なおさらイヤ〜〜な気持ちになる(学生の頃「◯◯反対の署名せよ、しないと〇〇に加担したことになるゾ」と脅されたのを思い出す)。
どうするにせよ、美学が「概念に媒介されない直接的感情」の探究を旨とする学問であるならば、とにかくこの気持ちの正体を見極めた上で事に当たるべきであろう、と私は考えた。この気持ちの内実とはいったい何であろうか?
美学会は千数百人の会員を擁する研究団体である。会員すべてに共通する政治的傾向があるわけではない(どちらかというとコンサバな感じはあるとはいえ)。上記の問題について、ケシカラン!と憤っている人もいれば、「表現の不自由」展なんて芸術でもなんでもないから関係ない、と無関心な人もいるだろう。「いくら何でも天皇の肖像を燃やすなんて!」と、みずからいわゆる「電凸」に加担した人だって、もしかするといるかもしれないのである。だから美学会としてこの問題に特定の立場をとることに対する、抵抗感はたしかにある。
ではこの問題について私自身、個人的にどんな感想を持っているのか。一言でいうと「この程度のことで、あんまり騒ぎすぎではないか」というものである。
まず、作品はたしかに微妙な政治的問題に触れるもので、過去に展示中止になったものばかりだということだが、表現としてそれほど過激なものは何もないし、かりに自分が保守的・右翼的な立場だとしても、まあ放っておいて後で悪口を言えばいい、程度のものである。暴力的手段を使って中止させるほどのものでは、まったくない。
一方、ネットや電話による攻撃や脅迫は、業務マニュアル上それに対処しなければならない担当者の方々には、想像を絶するストレスだと思うが、それはそうしたマニュアルの方に問題があるのであって、ほとんど実行可能性のない単なる脅迫の真似事で展覧会を閉鎖するという処置もまた、過剰反応である。けれどもこれは本件にかぎらず、たった一本の爆破予告で大学が休校になったりすることをみてもわかるように、現代社会に共通の問題である。
こんなふうにして、本来ただ放っておけばすむことを、方々から突っついて大問題にしてしまったので、あげくのはてに補助金停止などというバカげたことになった。これは国家権力による表現の自由の弾圧というよりも、右派を喜ばす断固たる決断をしたゾという、政治的パフォーマンスを行なうために、この騒ぎが利用されたということでもある(老練な政治家は使えるものは何でも利用するからね)。
だから「補助金停止」に目くじらを立てて抗議するのも、あまりに大げさすぎると感じられる。たしかに芸術にもお金は要る。だから誰かがお金を出してくれれば、それを利用して面白いことができる時もある。だからといって芸術が「お金によって可能になっている」と考えるのは間違いだし、出資者が芸術の価値を理解してお金をくれるのだと信じるのも、あまりにもお人好しと言わざるをえない。学術研究にとってもそうだが、交付金や補助金なんて、しょせんはその程度のものなのである(なんて事を言うとすぐに「フン、お前は比較的恵まれてるからそんな気楽なことが言えるのだ、というルサンチマンを即座に浴びるのだが)。
政治に比べて、芸術とは「弱い」ものである。芸術も、美学や芸術研究も、芸術に関わる様々な活動や組織も、社会の中では基本的に弱い。でも文化庁や文部科学省だって、省庁の中ではいちばん弱いのである。今回のような事件が起こると、そうした弱いものどうしの間で、どんどん敵が作られていく。同じような気持ちを共有していても少しでも立場が違うと、もう許せなくなって悪者探しと責任追及が始まる。ちょっとした言葉遣いの違い、知識の有無、署名をするしない、声明を出す出さない、そんなことで分裂していく。その結果、弱い側は全体として、さらに弱体化してゆくのである。
この状況は、誰にとって都合がいいだろうか? 皮肉な考え方をすれば、これは帝国主義的な植民地政策と同じ状況である。支配の側が恐れるのはつねに、弱い者たちの団結なのだ。それをさせないためには、弱い者どうしにずっとケンカさせておくにこしたことはない。一部の味方をして金をやったり、また取りあげたりして、揉め事を起こしておくのである。そして自分は上から「土人どもはほんといつまでも仲悪くてしょうがねえなー」と言ってればいいのだからね。
といっても、今の日本に誰かそういう特定の独裁者がいるということではない。たしかに、ある程度独裁的な権力を手にしている人はいるけれども、大臣も首相も大企業経営者も、本当はたいした人物ではない(悪人になるほどの根性なんてない)。メディアの演出を通して狡猾に、あるいは毅然としてみえるだけで、みんな個々人としては、おどろくほど無知でヘタレなのである(わずかだが立派な人ももちろんいる。そういうことは美学を勉強するとよく分かるようになります)。
では、今のような社会状況を作ったそもそもの張本人は誰なのかといえば、それはやはりこの四半世紀の日本経済の停滞であろう。為政者たちの最大の責任は、この停滞をみずから招いてしまったことにある。しかもそれが自分たちの責任であることを明確に自覚しない。でも薄々は気づいていて、責任追及されないようなプロパガンダも行ってきた。その結果私たちは、もはや経済成長はなく、それは財政赤字や少子高齢化による避けがたい必然で、やるべきことは既存のパイの奪い合いしかない、みたいな世界観を植え付けられてしまった。それでは、みんながギスギスして争いあうようになるのは、当たり前なのである。恵まれた人をみると、あいつは自分の取り分を奪っていると人は信じるようになる。医療や介護でお金のかかる障害者や老人は、早く死んでくれと若者たちは内心思うようになる。毎日ネットで責任追求できる犠牲者を人は探すようになる。そして芸術なんてあやしげなものにお金使うのもどうだか、なんて思ってるところに「表現の不自由」がきた。そういうことである。
そういうわけで、美学会としてこの問題に対して抗議声明を出すというのも、やはり弱いもの同士の分裂と反目を助長していることになるのではないかと感じる。といっても、これはすでに声明を出された学会・団体やその代表者を非難するものではけっしてない。むしろ私の持ちえない決然とした態度を尊重する。そしてこの問題をきっかけとして、(はじめから悪者や落とし所が決まっている議論ではなく)真に多様な方向の議論が交わされるようになれば素晴らしいと考えるし、少なくともこの点に関しては、反対される美学会会員はいないだろうと推察する次第である。