ぼくは、「政治的」な人も、「政治的」な議論も、大嫌いである。
けれどもそれは、「政治的である」ことがほとんどの場合、「ある立場を取る」こと、「その立場からものを言う」こと、そして「その立場へと人を誘導する(そして誘導されえない人を否定する)」ことと、同じだと思われているからであり、その限りにおいてである。
それに対し、本来の(アリストテレス的な)意味におけるポリティカル、つまりポリス的である、善を志向するという意味において「政治」というものを理解するなら、誰の、どんな行いも政治的であらざるをえず、美や芸術についての言明ですら、政治的でないものなどありえない。
それでは「政治的に中立」とは、いかなることだろうか? 教育においては「政治的中立」が求められると言われるが、それはどのようなことだろうか?
どんな事柄について何を言おうとも、根源的な意味でそれは「政治的」なのだとすれば、「中立」などということはありえない。もしも「中立」にみえる言説があるとすれば、それはたんに「政治に言及していない」だけだろう。
政治に言及しない言説とは、政治的な話題を避けている言説である。教育の現場において、もしも教師がそうした話し方をしたら、生徒たちがそこから受けとる基本的メッセージとは「大人たちは政治に言及することを避けている」というものである。
このメッセージは教育上、きわめて有害である。なぜなら「政治に言及しない」態度は、それ自体がきわめて政治的だからだ。しかも、それを明示的にではなく、ある話題を避けるという仕方で暗黙のうちに伝える。「政治的に中立」な授業をする教師は知らず知らずのうちに、「政治に言及してはならない」という政治的メッセージによって、生徒たちを洗脳していることになる。
ではどうしたらいいのか? もちろん、政治的に偏向した教育を肯定するわけではない。「政治的に中立」は原理的にありえないけど、次善の策は、教師が自分自身の政治的信念を、暗黙にではなく明示的に語ることである。「私はこう思うが、君たちは自分で考えればよい」と言えばいい。
すると子供たちには少なくとも、「大人は率直に自分の考えを言ってくれた」という基本的メッセージが伝わる。そのあとは、子供たちに委ねるしかない。それ以上を望むことはできないのである。
教育が政治的な偏向から少しでも自由になりうる基本的な条件は、教師が自分自身を率直に示すことであり、それを許すことである。それは理想的な方策ではないかもしれないが、少なくとも「教育の政治的中立」などという欺瞞にしがみつくよりは、はるかにマシなのである。