本日午後は「メディア芸術祭」のシンポジウムで、漫画家のしりあがり寿さん、伊藤遊さん(京都国際マンガミュージアム/京都精華大学)とマンガのお話をすることになっている。
ぼくは小学校高学年くらいの一時期にどうしてもマンガ家になりたくて、その頃は石森章太郎(後の石ノ森章太郎)みたいなのを目指していたのだが、その後は水木しげるさんに傾倒し、大人になってからは、もしマンガ家になるならしりあがり寿さんのようになりたいと思った。そういうあこがれの人なので、今日はちょっと緊張するかもしれない。
このシンポジウムの「マンガと日常/マンガの日常」というタイトルは、伊藤遊さんが昨年イタリアのルッカでメディア芸術祭を紹介する展示を企画された時のテーマ「日常を少しだけズラす」から思いついた。「少しだけ」というのが、なんとも、とてもいいと感じた。「少しだけ」とはどういうことだろうと考えた。この言い方が、マンガというものをうまく定義しているような気がしたのである。
「メディア芸術祭」は、4つの部門というかジャンル(「アート」「マンガ」「アニメ」「エンタテインメント」)から成り立っている。この中で、ぼくは「アート」と「マンガ」というのは、具体的なジャンルであると同時に、私たちがこの世界に向き合う基本的態度のようなものでもあると考えてきた。その意味では、ふつうマンガと呼ばれるものの中にもアートはあり、アートの中にもマンガはある。「アート」も「マンガ」も実体的な領域ではなく、料理で言うと、「塩味」とか「甘み」とかいった、「成分」に近いものだと考えている。
大雑把な言い方をすると、日常を「少しズラす」のがマンガの成分で、「大きくズラす」のがアートの成分かもしれない、と思っているのである。
「少しズラす」というのは、どんな荒唐無稽なことを描いたとしても、すぐ隣に日常が隣に見えているような感覚だと思う。没入しきれないというか、半分醒めている夢というか。それに対して、「大きくズラす」というのは、すっかり向こう側に行ってしまうこと、男のロマンというか、没入しきってしまうようなことである。
何事にせよ「大きくズラす」場合、それをしない人との間には会話が成立しにくい、ということはある。「アート」の場合にはもちろんそうなのだが、アニメやゲームのようなエンタテインメントも、その意味ではわりとよく似ている。日常とは違うある別の世界の存在を互いに前提していないと、話が合わないからである。
マンガも広い意味では「娯楽」「エンターテインメント」に入るのかもしれない。でもマンガにおいては、日常との隔離は、かなりユルいと思う。そして、だからこそかえって、日常との「ズレ」からすごいパワーが出てくるとも言える。
ちなみに文体にも「マンガ的」なのと「アート的」なのがあって、自分の書く文は、かなりマンガ的ではないかと思っている。そうではないのもあるが、今書いているような文章はまったくそうだ。
ぼくは「落語をマンガにしよう」とした故桂枝雀さんのファンなのだが、かれが提唱した有名な「緊張緩和理論」というのがある。あらゆる物語が緊張と緩和で成り立っているというのだが、その組み合わせは簡単ではなく、ものすごい緊張が長く続くものもあれば、緊張があっという間に緩和されたり、さらには緊張と緩和が一体化してるような場合もある。どちらかというと、後者の方がマンガ的だと思う。もちろん落語の中にも、もっと娯楽的あるいはアート的な、つまり没入させるようなのもある。
マンガはシリアスなものを茶化す。これは、何も風刺とか戯画というだけではない。たとえば、ある人をマンガの人物として描いただけで、すでにそこに緊張の緩和が起こっている。たとえマンガ自体が作品として面白くなくても、マンガはマンガであることによって、基本的に可笑しい(「作品として」という考え方にはアート的要素がある)。これがぼくにとって、この世にマンガが存在する意味の中心である。マンガが大事なのは、それが優れた作家や作品を多く生み出してきた「文化」だからではない。
しりあがり寿さんは自身のブログで、正月明けの「シャルリー・エブド」の襲撃事件に言及され、「表現の自由」とは、砂金を見つけるようなことだと書かれた。これは面白い比喩だと思う。砂金を見つけるにはものすごい量の「ただの土くれ」と格闘しなければいけない。あ、これ金かな?と思ってもたいていは勘違いだったりする。それでも微かな希望を胸に採り続ける、などと言うとまるで『プロジェクトX』みたいだけど、砂金採りとは本当はたぶんそうではないと思う。
だって…最後まで一粒も見つからないかもしれないのだからね。希望というより絶望的な気持ちで、あーあ、今度もなかったか…というような気分で、それでも採り続けるようなことだと思う。だが「表現の自由」を護るためにみんなが「シャルリー」になってデモをしたり、各国の首相たちが腕を組んで行進したり(でもヤラセ的演出であったことがすぐバレた。この点はマンガ的だと思う。)するのは、砂金採りとはかなり違うことをしているような気がする。