「レボリューション」というのは、「革命」と「回転」をともに意味するぞんざいな言葉である。
いきなり何を言い出すのかと思われるだろうが、本日お会いするしりあがり寿さんの近作「絵画のぞんざいな回転について」のことを考えていて、つぶやいてしまった。近作といってもマンガではない。京橋で昨日まで展示されていた美術作品である。詳しくはしりあがりさんのブログ「ほーい!さるやまハゲの助」を参照。
残念ながら展示には行くことができなかったのだが、彼の「回す」美術作品はこれまでも観たことがある。箱根の彫刻の森には回るダルマがあるし、東北大震災後に広島現代美術館で行われた「ブリキの箱舟」で展示された「チクビまっ黒族と股のあたりキラッ族との世界遺産を巡る戦い」では、向かい合った裸のマネキンが回っていた。
しりあがりさん自身は、回すなんて「ズル」であり(作品は回したり音を出したりしなくても空間がもつようにすべき、という点から言えば)、自分は「回転依存症」だと書いている。「美術」という観点からすればたしかにそうなのかもしれない。
でもぼくは、美術は今ちょっとアートになりすぎてるというか、「美術という観点」が強すぎると、美術はかえって脆弱化していくのではないだろうかと思っており、そこからすると、しりあがりさんの態度には健全さを感じる。
そもそもこの新作も最初はタイトルが「絵画の存在とその展開について」だったのを途中から「絵画のぞんざいな回転について」に変更したのだという。タイトルを途中で変更するなんてとんどもないことかもしれないが、ぼくは面白いことだと思う。「存在」がちょっとね、軽さじゃなく重さが耐えられないので、「ぞんざい」にした。
マンガも存在し、美術も存在し、私たち自身も存在する。それはジャンルであったり領域であったり立場であったりするのだけれど、あんまりお行儀よく存在し続けているとだんだん弱くなってゆく。何であれ存在することは本来、もう少し乱暴なこと、「ぞんざいな」出来事なのだと思っているのである。